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憎きアショーカ王

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 俺は南のかた、デリーの方角を指差した。
 「人々はこれはこうである、いやこうであると言い合って果てることがありません。昔の人々から学んだり、自らを省みることをせぬ人々は、新しい、これこそが真理である、という情報を求めて、わざわざたいへんな労力を払ってTVやインターネットなどというものを作り、それぞれに、これが真理である、いやこれこそが真理であると喧喧囂囂とやり、果ては自分がどこどこにいるという見解、自分が何々をしているという見解まで主張する始末です。実に見解の世紀です! 顧みますに、これが真理である、私は正しい、と主張することには何の意味もありません。なにゆえといって自分自身の正しさを証明することはできない(92)のですからね。例えば数学の定理は正しいとされますが、定理自身が自らの正しさを証明するわけではなくて、定理を見た人間が正しいと感じとるというに過ぎないのです。それにしても、そもそも人間の心、意識とは見解のことなのではないかと私には思えます。これは私である、と見なす見解によって私という意識となるように感ぜられます。この見解はきわめて頑強で、人をして意識は不滅で体は死んでも永遠に滅びぬとまで信じさせます。してみますと、そもそも勘違いに過ぎない私という見解に基づいて、決して証明できぬことを、これが正しい、認めぬ者は愚劣だ、と延々とやりあっているわけですから、この世界がコーカーリヤが脅されたところの地獄(93)の如きありさまとなるのも、当然の帰結であります。それにしても、バガヴァンはこの帰結を見て教えを説いたはずなのに、いったいこの様相はどういうことでしょうか? アショーカ王ですよ! 彼がビックが見解を持つことを承認したとき、バガヴァンの教えは隠れてしまい、いま我々が被っている苦しみが約束されたのです。ビックの見解について書かれた碑文が見つかれば、バガヴァンの教えが隠れてしまった原因が示唆されれば、世界に満ちているこの見解の暴力を減ずることができるはずです。実にこれが、私がアショーカ王の碑文を求めるゆえんなのです」
 このように俺が述べ終わると、老人は白いあご髭を撫で、
 「ふうむ…」
 と言いながらゆっくりうなづいて、論理を噛みしめている様子であった。
 「いや、これはお見事な慧眼ですな。なるほど、なるほど。しかしですな」
 老人は非難するのではないのだがと言いたげに俺に微笑みかけた。
 「要するにあなたは、アショーカ王の行いがこの世界の苦しみを生んでいるとおっしゃっているのですな? しかしこれもまたあなたの見解なのではないですかな? 他の人が自らの見解をこれは真理であると言うのと、違いがあるのですかな?」
 いちいちもっともなお方である。そんなことはわかっているのさ。ここにおいて俺が言えるのは、次のことだけだった。
 「さあ、私の与り知るところではありませんよ。確かなのは、私が小説を、書物を書いて生きることを選んだということだけです。そこでは私個人の言説が語られ、書物を読む人は、たとえたくさんの人と一緒に読んだとしても、そのときひとりきりですから、自らの力でそこから何かを得たり得なかったりするというだけのことでしょう」
 「ふむふむ」
 老人は白髭をしごいて納得至極という様子であった。
 「書物や言説というものは本来一個人のものに過ぎないということですな? あなたはこれが真理である、すべての人間はこれを承認しなければならない、と言うのではなくて、私がこれは私であると見なしているものがこのように感じた、という事象を述べているだけだということですな? それはあたかもあなたが先ほどおっしゃった数学の定理のようなものだということですな? いや、実は私も数学というものが好きでしてな。もともと子供たちに教えるために勉強を始めたんですが、そのうちすっかり没頭してしまいましてな。まあ、アマチュア愛好家というところです。それで、数学というものに親しめば親しむほど、正しいとされる数学の解や定理というものが、一人の人間が正しいと見なすことに負っているということが、面白く感じられましてな。長々と定理の証明を並べても、一番最後の瞬間は、一個人の、いわく言いがたい、理解というか判断というか、見なすという力に負っている。その定理について他の人がなんと言ったかとか、定理を示した人がどういう人かとか、どういう目的でその定理を探したかとか、私がそれを正しいと感じることで周囲に何が起こるかとか、そういうことはここでは関係がない。ただ自分がどう感じ取るかだけなんですな。数学におけるこのような理解は、何かさながら晴れ渡った青空のような、清々しい感覚です。普通、人は何かの事象を理解するとき、私が、彼が、といったものに基づいて理解するものだから、それは実際の事象とは離れていってしまうものですが、数や式は私や彼といったものとは縁が感じられないので、このような理解が得られるのかもしれませんな。ところで定理というものは、自分が正しいのだと声を上げることはない。定理を示した人間がこれは正しいのだと言うことはあっても、定理自身は、ただ事象の形態や構造、ないし事象そのものを示すのみで、沈黙しています。あなたがおっしゃりたいのは、書物というものもまた、これが真理であると書物自身が声を上げるものではなくて、ただ事象の形態や構造ないし事象そのものを語るのみであって、それをどう感じとるかはひとえに読む人間一個人にかかっているのだと、こういうことなのでしょう? あなたがこうしたものを目指して書物を書かれるのなら、それは素晴らしいことですな。そのためにアショーカ王の碑文を見つけることが必要ならば、掘って探すのがよいでしょう。ところで…」
 老人はふと空を見上げて、雲の流れを目で追うようであった。
 「あなたは書物を書いて生きることを選ばれた。なるほどこれは確かなことでしょう。そして、もう三つほど、あたかも数学の定理のように、確かなことと感ぜられることがありますな。そう…」
 老人は空を見上げたまま続けた。なにを見ているのかと、俺も空を見ると、猛禽が谷風に乗って旋廻していた。
 「政治とか法律とかいうものがありますな。あれというのは、他人について語り行うものですな。これこれこのような者は、これこれこのように処すべし、といった具合に。ここでは個人については語られませんな。政治や法律というものは、自分自身については何も語らずに、これが真理である、と語るのみですな」
 いったいなんの話だ? 俺は老人に目を戻したが、彼は相変わらず風の流れを愛でている様子であった。
 「自分の見解を、これが真理である、人々はこれに従うべきである、と語ることは、つまり他人に勝手に政法を行っているわけで、個人の理解する力、判断する力を省いているわけですな。これは確かなことでしょう」
 きっとそうだろう。だがそれが何か?
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu