憎きアショーカ王
「ところで、ある書物に、人は他人によって苦しみを得る、と書かれていたとしたら、どうなるでしょうな? その書物を読んだ人が、そうかと納得したとして、他の人も、その書物を読んで、納得したのなら。もしすべての人間がその書物を読んで、そのように納得したならば? いったい苦しみは誰からやってくるのか、わからなくなってしまうのではないですかな? これもまた、確かなことではないですかな?」
老人はふいに俺に背中を向けて、楼閣のほうへと歩き出した。
「しかしともかく、碑文を探してみるのがよいでしょうな。わざわざこのようなところまで来られたのですから。これはまったく確かなことでしょうな」
老人はすたすたと歩いて塔の中へと去ってしまった。回りくどい言い方をしてくれるものである。おかげで俺は弁明ができなかったではないか。
俺はしばらく陽光を浴びて突っ立って、鳥たちのさえずりを聞いていたのだが、結局、老人の言葉に従うことにした。リュックからシャベルを引き抜いて、丘の最も高い場所に突き立てた。掘り返す。土は固いが石は少ない。いつしか俺に次のような考えが浮かんだ。
アショーカ王がここにストゥーパを建て、碑文を刻み、マムルークが壊し、俺がここへやって来て、掘り返して見つける。これは数学の定理のように、初めからそこにあって、人間が定理を発見するように、現実がこれらの事象を発見するかのようだ(94)、と。
しかしそうだとしてもそれが誰かの役に立つとは思われなかったので、俺はまた土を掘ることに没頭していった。やがて大地が東に回り、太陽が西に去った(95)。
丘の頂点、一メートル四方ばかりを掘り進めた。じきに雨季が始まる時節であるので、日が暮れてもなお熱い。汗が止まらぬので、シャツを脱いだ。穴の深さがようやく一メートルほどに達したとき、俺は足元に自分とシャベルの影があるのを見た。空を見上げると、月が太陽の光を照り返して浮かんでいる。大空には、巨大な光輪と天の川銀河。そうか、今日はウェサック(96)なんだった。どうりでランタンなしでも手元がよく見えるわけだ。今ごろ、スリランカの町々は大賑わいだろう。
二メートル近く掘った。体中から汗を噴き、肩で大きく息をした。この俺の努力はいったい誰の何のためなのか、よくわからなかったが、ウェサックの一儀礼なのだということにでもしておくとしよう。スプーンに足をかけ、ぐっと踏み込んだとき、ガツン、という音が響いた。大きな石に相違ない。園芸用のスコップで土を取り除き、石面を露出させ、ズボンのポケットからハンドライトを取り出して、光を当てる。灰色の石が光っていた。砂岩だ。下部が割れているが、これがなんであるかが即時に了解された。それというのも、俺の意識に古い100ルピー札の絵柄(97)が浮かんだからだ。これは獅子の頭だ。素材も造形もサールナートのもの(98)と瓜二つである。割れた下部の底、砂岩の塊が覗いていて、まだ相当の深さで埋まっているものと見えた。
あった。これって石柱じゃないか。書物で読むだけで、幻想の異世界のように感じていた歴史という宇宙が、突然、俺の住んでいるこの宇宙に合流してきたように思えた。実に人の見解というものほど強力な幻覚はないと思えた。宇宙がひとつしかないと認めると同時に、このように信じて疑わぬのだから。
砂岩の塊を、さらに掘り出す。獅子の足の部分は割れていて、槌のようなもので壊したのだろうことが見て取れた。槌を振り下ろすテュルク人の姿が俺の意識を駆け抜ける。見るに耐えぬ光景であった。彼の顔は怒りと恐れに覆われ、あたかも暴力という名の神が宿ったかのようであった。暴力とはそもそもなんだろう? 彼に何が起こったものか?--欠け落ちた砂岩の下を、俺はさらに掘りつづける--これは明らかだ、と俺は見なした。彼は自らを守るべくストゥーパを破壊したのだ。この砂岩の塊が、彼らを殺すと彼は見なしたのである。なぜか? 俺の敵である彼らのものであるから、というところか。暴力の原因は恐れで、恐れの原因は、不滅の生存へ向けて突進する、何も言わず、何も聞かず、何も見ていない、生命の、幾億年を生き延びた、強力な力に発する、俺という存在とその所有物、彼という存在とその所有物、というものに基づく見解だろう、と俺は見なした。俺の意識、俺の国、俺の友、俺の家族、俺の金、俺の誇り…一歩歩くごとに、インターネットを一ページ閲覧するたびに、これらを守るべく戦いが始まる。存在しないものを守ろうと戦うこと、敗北が約束されたこのような戦いが、楽しいはずもない。苦しいだけだ。苦しみをもたらすものは自分自身のこのような暴力に違いない。暴力は彼自身の悲惨であるがゆえに、どんな他人にとっても悲惨であるに違いない。
俺は息を整え、また掘る。俺は見た。汗だくになって穴を掘っている、上半身裸の、俺の姿を、俺の心のうちで。彼の望みはなんだろう? 知ったことである。この苦しみをどこかへ放り投げてしまいたいのだ。俺の誇り、俺の自負を守るためのこの戦いに勝って、この苦しい戦いを、終わらせたいのだ。要するに彼は…
この景色が去ったとき、足元の砂岩に、何か線のようなものが刻まれているのが見えてきた。ライトで照らし出す。これはブラーフミー文字(99)の"P"に相違ない。碑文だ……
スコップとハケを使って、砂岩の表面をさらに露出させる。文字の状態はよい。磨耗している部分もあるようだが、タクシャシラーで見た石柱碑文よりもよほどはっきりしているものと見えた。一千年間に渡って埋蔵されていたからか、それともこの碑文が単にアショーカ王の時代よりもずっと後になって掘られたからか? 疑問に思えたので、ライトを当てて見てみる。碑文の左上部、"Priyadarssi(100)"と読めた。ああ、彼のことはよく知っている。親類からの手紙が土の中から出てきたような思いがし、俺の心は安らいだ。なにゆえかは知らぬ。
ブラーフミー文字がいったん途切れ、すぐにその下から、今度はカローシュティ文字(101)が現れた。アラム語(102)で、上と同文を記したものだろう。アショーカ王の頃、クル地方にアラム語を用いる人々がいた証左である。バーラット史学者が泣いて喜ぶ発見なのだろう。
しだいに俺は、ただ掘るという存在となった。ひと刹那、モグラやツチブタの意識とはこのようなものかと思えた。何も考えぬ。世界は闇の中で停止しているかのようだ(103)。
カローシュティ文字もすべて現れたことに気づいた。ハケで土を落とし、ブラーフミー文字のほうを読んでみた。慣れ親しんだマガダ語(104)だ。磨耗や石面の剥離によって読めぬ部分もあったが、俺は彼と対話をしたと信じた。
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu