憎きアショーカ王
(73) サーリプッタ--[パーリ]Sariputta [サンスクリット]Sariputra [漢音]舎利弗。 ブッダ・サキャムニの弟子の一。智慧第一と称せられる。ナーランダーのバラモンの出身。Satiという母親の氏姓にPutta(子息)がついてSatipputaと呼ばれていた(ジャイナ教典Isibhasiyaim)が、パーリ語の音韻変化によってSariputtaとなったという。名はウパティッサ([パーリ]Upatissa)。この名はカルカッタ・バイラートの少摩崖碑文に、七法門の一『ウパティッサの問い』として刻されている(研究者の多くはパーラーヤナヴァッガの16詩に比定する)。隣村のモッガラーナとは親友で、「もし不死を得たなら、互いに教えあおう」と約束し、初めモッガラーナとともにサンジャヤ・ベーラッティプッタに師事していた。ラージャグリハで初転法輪によって仏弟子となっていたアッサジが托鉢しているのを見て、彼が優雅で落ち着いていることに気づき、「あなたの師は誰ですか? あなたはどんな法を楽しんでいるのですか?」と尋ね、アッサジから無常の一端を聞くと、即座に「およそ生ずる性質あるものは、すべて滅する性質あるものである」と悟ったという。モッガラーナに会いに行き、「友よ、君は不死を得たのですか?」と問われると、「友よ、私は不死を得ました」と答え、アッサジから聞いたことを言うと、モッガラーナもまた、「およそ生ずる性質あるものは、すべて滅する性質あるものである」と悟って、サンジャヤの弟子たちとともにブッダ・サキャムニのもとへ赴いたという。サーリプッタはブッダ・サキャムニに後継者と目されるようになるが(例えばスッタニパータ556「師の相続者である弟子は誰ですか? あなたが回されたこの輪を、誰があなたに続いて回すのですか?」557「私が回した輪を、続いてサーリプッタが回す」)、師に先んじて病没した。ところでサンジャヤは沙門果経([パーリ]Samannaphalasutta)に表れ、そこでは誰の役にも立たない詭弁を説いていたと断ぜられてしまうが、智慧第一とされるサーリプッタがそのような師に学んでいたというのは少々おかしい。思うに、サンジャヤは端的に非我を説いたではないだろうか。もしもルネ・デカルトというような人が彼に、「我思う、ゆえに我あり」と言ったなら、サンジャヤは次のように言うかもしれない。「まあ、あなたがこれを我と思うなら、私もこれを我と思ってもいいけれども、しかしべつに、私はこれをあなたが言うような我とは思わないし、我ではないとも思わないし、我でありかつ我ではないとも思わないし、それから、実のところ、思わないとも思わないですよ」と。人間が普通に、「これは私である」「これは私の所有するものである」と認識する意識を、懐疑的に見ることを説いたのだとすれば、サンジャヤはブッダ・サキャムニに近かったということになる。しかしサンジャヤのそれは論理学的な思弁に留まっていて、ブッダ・サキャムニのそれのような行為の地平に立っていなかったのかもしれない。さてサーリプッタはブッダ・サキャムニとは離れて暮らし(ブッダ・サキャムニはコーサラに、サーリプッタはマガダにいることが多かったようだ)、自ら説法していたことが知られるが(例えばIsibhasiyaim)、サーリプッタの教えは、仏教のいくつかの部分のもとになっているかもしれない。例えば慈悲である。ブッダ・サキャムニは、談論を弄ぶべきではないとし、「これは苦である、これは苦の原因である、これは苦の消滅である、と語るべきである」と説く(マハーヴァッガなど)。無記という語がある。一般に、ブッダ・サキャムニが「宇宙は有限であるか無限であるか」「死後には何があるか」といった形而上の問題に答えなかったことを現す用語である。しかしいまアッタカヴァッガなどの古い詩句を見ると、無記とは形而上の問題に答えないことを言うのではなくて、「これは苦である、これは苦の原因である、これは苦の消滅である」ということ以外のことを説かなかったということではないかと思える。ところで慈悲はとりもなおさずこの三つの事柄ではない。しかし無常と無我はこの三つの事柄である。仏教経典などでサーリプッタが慈悲を説くくだりはたくさんあるし(例えばミリンダ王の問いやIsibhasiyaim)、慈悲など後の仏教で中心となった教えのいくつかがサーリプッタに始まる可能性を指摘する研究者は少なくない(例えば中村元博士の論文『サーリプッタに代表された最初期の仏教』)。
(74) ガズニーのマムルーク--ガズナ朝のマフムード(在位:998-1030)のことか。今日のアフガニスタンのガズニーを首都とし、聖戦と号して北インドの町々を略奪、ヒンドゥー寺院、仏教伽藍を破壊すること十七度に及んだという。ガズナ朝はササーン朝のテュルク系マムルーク(奴隷軍人)に出自するイスラム王朝だった。
(75) 隠れクリスチャンという人たちが今もいる--隠れキリシタンは、長崎県の平戸島や五島列島などに現存しているという。明治期の禁教解除以降も、秘儀伝授のような方法で伝承されており、土俗化と相まって、もともとのカトリックとはかけ離れたものとなっているという。
(76) 法顕--335頃-421頃。東晋代のビック。中国に律蔵の欠けていることを嘆いて、399年頃、同学のビックら数名とともに長安を出発、入竺求法の旅を始める。驚くべきはこのとき法顕は歳六十を過ぎていたことである。西域の国々で同行する者あり、一行は十一名にもなった。天山山脈南路からタクラマカン砂漠を縦断してコータンを通り、カラコルム山脈をおそらくクンジェラブ峠で越えてインドに入り、仏跡巡礼、諸学の学習と写経に勤めたが、留まる者あり、病没する者あり、ついに法顕ひとりとなった。孤影悄然たりつつセイロン島に渡って二年間パーリ三蔵を学んだのち、写経を携え商船に乗ってジャワを経由して広州へ向かったが、暴風雨に遭って船は進路を失い、412年頃、今日の山東省青島に漂着。14年間に及ぶ旅を終えた法顕は、齢八十にならんとしていたが、建業に赴き、旅行記法顕伝(仏国記とも)を著し、摩訶僧祇律(大衆部の律)、大般泥?経(マハーパリニッバーナスッターンタ)など六部六十三巻の仏典を訳したのち、八十六歳で没した。五分律や長阿含、雑阿含などセイロン長老部の仏典をも多くもたらし、中国、朝鮮、日本などの北伝仏教に多大な影響を残した。
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu