憎きアショーカ王
(66) スリナガル--[英]Srinagar. カシミール語音はシュリーナガル。インド共和国ジャンムー・カシミール州の夏季州都。今日ではイスラム教徒が多く、分離独立以来長らくカシミール問題の渦中にある。大唐西域記巻第三六条には今日のスリナガル(七世紀当時すでに新都としてあった)の仏教伽藍の記述がいくつかあり、私は赴いてその痕跡を探した。玄奘の記しているらしき場所にことごとく寺院はあったのだが、そこには大きなリンガと蛇がいるのみであった。しかし、かつて仏教伽藍だったところがナーガを祀るヒンドゥー寺院になったのかもしれない、なぜイスラム教のモスクではないのか、などと思い、興味深かった。玄奘が訪れた際すでに旧都となっていた地域は、外国人の立ち入りが禁じられていた。この旧都に仏足石のような遺物や、ストゥーパのような古い楼閣があるというが、私が見たのは町の入り口の、ライフルを携えた兵士たちだけだった。
(67) カニシカ王--[サンスクリット]Kanishka [漢音]伽膩色伽(在位:144頃?-173頃?)。カニシュカとも。クシャナ朝第四代とされる王。カニシカ一世。クシャナ朝はもと中央アジアのキルギスにいたとされるイラン系の王朝で、カニシカ王の即位までには、バクトリア地方のギリシア人たちと、ガンダーラ地方のインド・パルティア王国を破ってこの地域を支配した。カニシカ王の時代には今日のペシャワールを首都とし、西方のパルティアと対立しながらも、インド東部のガンジス河流域を征服したという。仏教に帰依し、カシミールで第四回結集を主宰した。しかしこの結集は説一切有部の結集であり、今日の南伝仏教はカニシカ王結集の影響をほとんど受けていないだろう。法顕などが記録している高さ百二十メートルという大ストゥーパ(雀離浮図。法顕は"塔廟"と記しているから、内部に入れる構造だったようだ)は、カニシカ王の創建とされてきたが、1909年にペシャワール郊外の遺構からカニシカ王の銘が入った舎利容器が発掘され、このことが確かめられた。
(68) 根本分裂--仏教サンガの長老部と大衆部への分裂のこと。南伝ではアショーカ王時代より百年前とされるが、アショーカ王碑文には長老部と大衆部に当たる表現はないため、アショーカ王の灌頂二十七年(デリー・トープラー、カンダハール石柱碑文。発見されている最も遅い灌頂年)以降の出来事かもしれない。ただしサンガの和合を説く碑文(31参照)があるから、この碑文が作られた頃には分裂の兆候はすでに現れていたと見られる。マハーパリニッバーナスッターンタでは、ブッダ・サキャムニは死の間際に、「サンガは、私が死んだ後には、もしも欲するならば、些細な、小さな戒律箇条は、これを廃止してもよい」と述べる。これに従ったものか、律の改変を求める者たちが出てきた。アショーカ王の仏教保護は、出家者の増大、布施者である在家信者の増大をもたらしたが、同時に借金の免責のためとか、衣食住を確保するためといった不純な動機で出家する者が増え、在家信者からの布施が増えたために、なにものも所有しないという律を保つことをよしとしない者たちが現れるに至っただろうことは想像できるし、アショーカ王の灌頂よりも古くにほとんどの詩が成っただろうテーラーガーターには、堕落したビックについての詩がいくつもあるから、アショーカ王時代のビックは確かに多様であったろう。そうして布施の貯蓄などについての十箇条の律の改変を議論するいわゆる第二結集が開かれ、改変を認めない長老部と改変を求めた大衆部とが分裂したという。この根本分裂の原因は、"律を巡る見解の相違"と説明されることが多いが、しかし彼の言うように、見解とは執着であって苦は執着から生まれると説く法門を保持するビックの行いとしては、確かに奇妙なことである。ところで律を巡る分裂といえば、根本分裂以前に、ブッダ・サキャムニ存命中に、デーヴァダッタ(78参照)によるサンガの分裂があったことは、パーリ律蔵などに記されるところである。大衆部が求めたのは律の緩和であったが、デーヴァダッタはジャイナ教や伝統的な苦行者さながらに、律の厳格化を求めた。ブッダ・サキャムニはデーヴァダッタの求めを退けサンガ分裂に至るが、律の緩和も厳格化も見解であり執着であるということだろうか。
(69) こうしたものはなかった--しかしブッダ・サキャムニの神格化は、最も古いと思われるパーリ経典にもしばしば現れるから、遅くともアショーカ王の第三結集までには確立していただろう。そもそもアショーカ王のストゥーパ創建は、ブッダ・サキャムニの神格化の潮流の中で行われたことだろう。とはいえブッダ・サキャムニは信仰を説いたのではなく、仏教とはそもそもその字義通り"真理を知るための教え"ないし"真理を知った人の教え"(これは同じ意味である)であり、聖人ゴータマ・シッダルタの教えという意味では全然なかった。信じるのでなく理解するものであって、普通に言うところの宗教ではなかった。ブッダ・サキャムニの十のストゥーパ(38参照)も、ただちに信仰の対象となったわけではなく、偉人の墓碑というだけのものだったようだ。アショーカ王以降、ストゥーパ崇拝から仏足石、仏像、さらには経典崇拝まで、仏教は特に大乗仏教において多様な宗教化の発展を遂げる(南伝仏教でも仏像を拝むが、大乗のような功徳を願うという意味合いは薄いし、経典崇拝はない)。仏足石は仏像崇拝の前段階であり、ブッダ・サキャムニを直接現すことは長く行われず、クシャナ朝期のコインが初めであるという。この理由はおそらく、註54にある大唐西域記の仏足石についての物語に示されてあるだろう。いま仏典の古い詩句を見ると、ブッダ・サキャムニは苦とは生存欲に始まる連鎖と説いた(例えば"これは私である"という意識がそれである)。生存欲を生存欲であると知って滅すればこの連鎖から脱することができると説いた(解脱)。しかしこのような教えは今日の人間であっても理解するのは難しいように思える。十七世紀の学識ある西洋の人々が、「我思う、ゆえに我あり」というような思想をもてはやしたくらいなのだから、古代の人々であればなおさらではなかったろうか。輪廻というようなものがあって、そこから脱することが解脱であり苦の終焉であると説明されたほうが、自己を観察するような習慣のない者にとっては、よほどわかりやすい。輪廻思想は、おそらく仏滅時には相当に広まっていた(アショーカ王碑文から推測できる)。そこで"生存欲"を"生存の原因"と了解する者たちが出家在家問わず多く現れたようだ(例えばスッタニパータ572「あなたは生存の素因([パーリ]Upadhi)を超越し、もろもろの煩悩の汚れを滅ぼしておられます」)。ブッダ・サキャムニは生存の原因を滅して輪廻から解脱したのだから、体が滅んだあとには何も残ってはいないと考えられ、ただ骨(ストゥーパ)と足あとのみが拝まれたのだろう。
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu