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憎きアショーカ王

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(44) そこですら一部の人々なのだが--南伝仏教はブッダ・サキャムニ時代からのサンガを維持し、ブッダ・サキャムニの言行を正しく保存しているとまで言う人がいるが、実際にはジャータカ(ブッダ・サキャムニの前世物語)はもちろんのこと、古いと見なされる経典ですら神話的な潤色が多分に含まれていて、まずどういうものが後代の潤色でどういうものが古い記録なのかを学ばなければならない。こうしたことについて言っているかもしれない。

(45) アムリトサル--[パンジャブ]Amritsar. アムリットサルとも。英音アムリッツァー。インド共和国パンジャブ州の都市。人口約百万人。十六世紀以来シィク教の総本山であり、1984年の黄金寺院事件(シィク過激派による分離独立運動の武力鎮圧)の舞台ともなった。ちなみに一般に"インド人"としてイメージされる、ターバンを巻いて髭を生やした男性像は、シィク教徒の姿である。インド北部ではバスの運転手はシィク教徒が勤めることがほとんどだから(ヒンドゥー教徒もイスラム教徒も問題なく乗れるという事情のようだ。シィク教徒はしばしば両教徒の弛緩剤の役割を担う)、ここで彼が乗っているバスもシィク教徒が運転しているに違いない。

(46) もっとよい方法を持っていた--ヨーガ([サンスクリット]Yoga)のようなもののことを言っているだろう。ヨーガとは"くびきを結びつける"という意味で、馬を御するように心を御すること。近年では転じに転じて健康法とか自然との調和などともされるようになった。近世までのインドにおいて歴史が軽んじられたのは、人間世界を超越した、不変不滅の存在への信仰からかもしれない。

(47) 中夏の人々の文字の力への信仰--古代中国の人々は、文字は呪術的な効果を持つと考えていた。文字は人間ではなく神というような存在に語りかける手段と捉えていた。漢籍の古さ、膨大さはこの伝統に拠っているだろうし、中国においては絵画よりも書が重んじられたのも同じ理由に拠るだろう。今日の書論においては、呪術そのものである殷代の甲骨文字や周代の金文もしばしば鑑賞して論じる。

(48) 玄奘--玄奘三蔵(602頃-664)。唐代のビック。没後に法相宗の宗祖とされた。629年に求法して長安を出立。川西回廊、天山山脈北路を通り、ヒンドゥークシュ山脈をカイバル峠で越えてインドへ至り、インド亜大陸の広範囲を巡って仏跡を巡礼した。ナーランダ大学で諸学派を学んで経典を得ると、タクラマカン砂漠南路を通って645年に帰朝し、持ち帰った六百五十七部ともいう経典の翻訳を行った。元代の通俗小説『西遊記』でも知られる。

(49) 大唐西域記--玄奘が唐の太宗(李世民)の求めに応じて著した、西域(中央アジア)、天竺(インド)の地誌書。玄奘の帰朝の翌年、646年に献進された。全十二巻。各国の地理や習俗、宗教、政治、伝承などが記され、歴史的な記録に乏しい七世紀までのインドを知る資料として今日も貴重である。カニンガム(51)らインド考古局は大唐西域記の記述をもとに多くの仏跡を発掘した。

(50) 屈露多国--大唐西域記巻第四の四条に記されている。玄奘はジャランダルで説一切有部のアビダルマを四ヶ月学んだ後、「東北して険しい山を越え、危なっかしい道を過ぎ、行くこと七百余里で」この地に至ったという。この様子は今日も変わらない。「伽藍は二十余ヶ所、僧徒は千余人いる。多くは大乗を学び、少しく[小乗の]諸部を習う者あり。天祀は十五ヶ所あり、異道の人々が雑居している」とあり、山中の石窟には、「羅漢がいる所もあり、仙人がいる所もある」とあって、寺院に住む者だけでなく伝統的な森住修行者もいたことがわかる。今日もクル([ヒンディ]Kullu)はマナリ北に発したビアス川が南下して刻む渓谷地域を指し、クルという町もある。しかし玄奘が訪れここで述べているのはクル町の北二十キロ余り、当時の中心地だった今日のナガル(52)の様子だろう。

(51) カニンガム--[英]Alexander Cunningham(1814-1893). イギリス人考古学者。軍人としてベンガルに赴任したが、当時インド研究の中心だったアジア協会カルカッタ支部でインド考古学を学んだ。インド大反乱の後、軍役を辞してインド考古局(ASI. [英]Archaelogical Survey of India)を設立し、数々の仏跡、アショーカ碑文、インダス文明遺跡を発掘した。インド考古局はインド独立後、インド人に引き継がれて今日もある。http://asi.nic.in/

(52) ナガル--[ヒンディ]Nagar. "都城"の意。避暑地として国内から、バックパッカーの集合地として世界各地から多くの旅行者を集めるマナリの南、ビアス川を三十キロほど下った谷間にある、緑豊かな美しい町。その名の通り近年までクル藩王国の都城だった。今日その藩王城はホテルとなっており、博物館(ブラーフミー文字やカローシュティ文字のコインなどが展示されていた)も併設されている。古都として、ロシアの神秘的画家ニコライ・レーリヒ終焉の地として、知る人ぞ知る町だが、訪れる人は少ないらしく、私が訪ねた際に出合った外国人は、マナリにたくさんいる若いバックパッカーではなく、トリプラスンダリー寺院で出会った、建築愛好家で、楼閣を見に来たという日本人の老夫婦のみであった。

(53) その数八万四千という--これはアショーカ王の碑文にはなく、阿育王経などに出る話。しかし今日までに世界各地に作られた仏塔を合計すると、あるいはちょうどこのくらいの数になるのかもしれない。

(54) 仏足石--仏足跡とも。起源はよくわかっていないが、大唐西域記巻第八の二条の四項、パータリプトラにあった仏足石を説明して、「昔、如来がまさに寂滅に入ろうとされ、北してクシナガラに行こうとされるとき……この石を踏んで阿難に、「私は最後にこの足跡を残して寂滅に入ろうと思う。マガダ国を見るに、百年の後に無憂王という人があり、天下を統一して君臨し都をこの地に建て……」という。思うにアショーカ王以降、ストゥーパ崇拝が盛んになると、巡礼客を集めるために、ブッダ・サキャムニが訪れた土地と称して、仏足石が各地に作られ、このような物語もともに作られたのではないだろうか。

(55) オートリキシャ--オート三輪のタクシーのこと。小回りが利くので人や牛を避けて走るのに向いている。インドでは極めて一般的な移動手段である。まだ人力車が多かった時代(それは今日も見られるのだが)、日本語の"リキシャ"が用いられたなごり。
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu