憎きアショーカ王
(27) 二百年ばかり経っていた--ブッダ・サキャムニは八十歳で没したという(例えばMahaparinibbana-suttanta 5-27「スバッダよ。私は二十九歳で、善を求めて出家した。スバッダよ。私は出家してから五十年余となった」) が、生没年は確定していない。仏教経典には、アショーカ王の灌頂年(114参照)と仏滅年との年差が記録されているが、、南伝(26、29参照)は仏滅二百年とし、北伝(41参照)は仏滅百年とするので、百年もの幅ができてしまう。そこで研究者はさまざまに推定しているが、証拠となるような遺物が新たに出土しないかぎり決着しないだろう。しかしカールシー、エーラグディ、シャーフバーズガリー、マーンセーフラーの摩崖法勅第九章を見ると、アショーカ王の灌頂が仏滅百年とするには早すぎるように感じる。この碑文には輪廻思想が明確に刻されている(「法の祭祀は…その目的が現世に達成されなくとも、来世において無限の功徳を生じる」)からだ。輪廻思想は南北のビックの多くは今日もブッダ・サキャムニの悟りの内容であり彼の創始であるとし、研究者の多くは仏教のそれは仏滅以降になされたウパニシャッドの借用であり、その創始はブッダ・サキャムニの時代かその少し前として論争は果てしないが、いずれの説にせよ輪廻思想が仏滅から遠からぬ時代に始まるとすることには変わりない。特定の宗派に対するのでない公的な法勅であるこの碑文(「すべてのバラモン、沙門への布施」が法の祭祀であると刻されている)において輪廻思想が説かれるからには、これが諸宗派の宗教者と民衆双方に充分に認知されていたことになるが、果たして仏滅百年でそのような状態になるものだろうか。この点で言えばビックたちが言うように輪廻がブッダ・サキャムニの創始だとすると、二百年でも早すぎるように感ずるが。ともかく、ここで彼は南伝を採用しているのである。
(28) サンガ--[パーリ]Sangha [漢音]僧伽。原義は"集団"ないし"会議"。転じて組合とか共和国などもサンガと呼ぶようになり、仏教教団もそうしてサンガと称するようになった。出家し律を守って修行するビックたちの集まり。三宝の一、僧はサンガを指す。三宝に帰依することで仏教徒となるとされるが、もと法(84参照。ブッダ・サキャムニの教え)だけだったのが仏(個人としてのブッダ・サキャムニ)が加わり最後にサンガが加わったという。今日の日本ではしばしばビック個人を僧と呼ぶが、これは古来サンガと呼んだようなものが日本仏教において今日ほぼ存在しないことと関係しているのだろうか。
(29)長老部--[パーリ]Theravada. 上座部とも。名は布薩(85参照)などにおいて上座にあった長老(Thera)たちを中心とした部派であったことから。根本分裂(68参照)で大衆部(30参照)と分裂した一方を指す。今日スリランカなどで行われる南伝仏教(上座部)は根本分裂を経た部派仏教時代の長老部のうちの分別説部の嫡流であるという。保守的であったとされ、研究者の多くは、南伝仏教においては部派仏教時代の経や律が今日まであまり変わらずに保存されていると考える(ビックたちの伝統では、アショーカ王による第三結集から)。長老部のうち説一切有部は教学研究に傾倒して民衆と剥離したため、大衆部系から小乗と別称されるようになり、説一切有部が滅んでのちも、ごく近年まで長老部に発する南伝仏教全体に対してこの呼称が存続した。
(30) 大衆部--[パーリ]Mahasanghika. [漢音]摩訶僧祇部。根本分裂(68参照)によって長老部から分派した部派で、金銭による布施を認めるなど律の改変に積極的だった。異論もあるが、後の大乗仏教(41参照)は大衆部から興ったという。
(31) 和合するようにとサンガに指図をした--コーサンビー、サールナート、サーンチーの少石柱碑文のことを言っているだろう。サンガを分かつ者は還俗させよ、と命じている。ただしビックの見解云々はここには記されていないから、「見解の相違は置いておいて」というのは他の根拠に基づいた彼の推察だろう。89参照。この三つの碑文にも灌頂年が刻されていたはずだが、その部分は残っていない。
(32) バガヴァンの言葉であると語って--仏教経典は作成の時代が下るにつれ、「私はこのように聴いた」と書いてブッダ・サキャムニの言葉を聴いているのだとことさら宣言することが多くなるが、このことを言っているかもしれない。
(33) アッタカヴァッガ--[パーリ]Atthakavagga [サンスクリット]Arthakavargiyam sutrram [漢]義足経。今日スッタニパータ(34参照)の第四章となっている十六個の韻文の詩(スッタ)。"八詩句"の意。バラモン聖典は八詩句(八行詩)を一まとめに数えることが多く、リグ・ヴェーダもそうであった。アッタカヴァッガはこの伝統を受け継いでいるわけだが、それがこの詩群の成立が非常に古いと見なされる理由のひとつともなっている。今日伝わるものでは第一のスッタは六句、第二〜五のスッタは八句であるが、第六〜十六までは八句よりも多いから、ここには後代に付加されたものが多いだろう。サンスクリットや漢語に訳される頃にはすでに八詩句というヴェーダ的な様式は忘れられており、経名自体が誤訳されることとなったという(サンスクリット訳のArthakaとは利益というほどの意であり、漢訳して"義"となったという)。古層にあたる経典自体にしばしば引用されるほど古くから読誦されていた。クシャナ朝の在俗信者であった支謙が三世紀に呉で訳した『仏説義足経』として大蔵経に納められていたが、北伝仏教では顧みられることは少なかった。
(34) スッタニパータ--[パーリ]Suttanippata. 南伝経典の一で、ダンマパダ([パーリ]Dhammapada)、相応部([パーリ]Samyuttanikaya)のサガータヴァッガ([パーリ]Sagathavagga)と並んで、仏教経典のうち最も古い詩を含んでいると見なされている。五章(品)からなるが、うち"犀の角"として知られる第一章の三つ目のスッタ、第四章のアッタカヴァッガ(33参照)、第五章パーラーヤナヴァッガ([パーリ]Parayanavagga)は用語の古さ、他の経典への引用の多さからことに古いと見なされる。アッタカヴァッガを除いて漢訳されず、日本にもたらされたのは十九世紀の英訳よりもさらに遅れた1935年からの南伝大蔵経によってであった。スリランカでは今日も結婚式などの儀式においてスッタニパータの一節が歌われるという。
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu