Bhikkhugatika
深雪に思う我らの集い
雪が降りやまぬのは困ったことだが、寝ぼけた私の目を覚ましてくれたのだから、まんざら災難でもあるまい。真っ白な街は奇観というだけでなく、社会についての隠されていた観点が現れ出ているし、寒さは、沈黙していた私の生命の声を、私に聞かせるのに充分だ。
書物を読むのは諦めて、布団に入った。やれやれ、これで少し暖かくなるから、考え事ができそうだ。
それにしても、人間社会とは面妖なものだ。昔の人々の思惟と行為が繋がって、いま思惟し行為する我らの、この集い。電車だのビルだの工場だの、およそ奇っ怪な怪獣をこしらえ、この怪獣どもに取り巻かれて暮らすうちに我らは、自然がどこか遠くにあるものと思うに至る。
歌謡曲やゲームなど、他人が作ったものを他人によいと聞いて買い、消費して過ごす。何となく満たされたような気になるが、しかしこれが何になるのかやはりよく了解しえぬ。我らが自然であり生命であり生きて行為する力のあることは、ここでは何ら問題とされない。
努力とは金を得ることの為になされるものと見なされていて、それはすなわち生きるとは金を使うことであるという奇態な結論に帰結する。
労働して金を得て、金を使うのだが、何ら誇らしくはない。暖かい家で暮らし、常に満腹だし、流行と聞いて他の人と似た服や装身具で着飾るが、これらがこよなき幸せと呼べるかどうか、はなはだ疑問である。
その証拠に、我らはちょっとしたことで他人に怒るし、ことあるごとに自分は不幸だと嘆く。自分と他人を嘘でごまかす。心はいつも色々に濁っていて、散乱し、落ち着くことがない。
真善美とか慈しみというような伝統的価値観は、議論されないどころか、知られてもいない。学問して人格を磨くことは、公共的人間の務めではなく、物好きな個人的な趣味と呼ばれる。
そして満たされぬ人には、労苦を伴わぬよう慎重にしつらえられた、安直なありがたい言葉や占いが販売される。もちろん他人が作ったものを消費するだけなので、満たされたような気になるだけであり、これはいくらでも売れる。
この、これといった役割の見当たらぬ、いったい何をしているのか判然とせぬ我らの生と集いは、満たされぬことの怒りと嘆きから、我ら自身が生み出しているところの、暴力の激流にさらされて、悶えている。
いやはや我らが、雪の溶ける時までに、自分だけが儲けて生き延びたところで、満たされることなどないのであって、自分自身の知性と労苦によって正理を学び、武器を捨て、鎧を脱ぎ、優しさを身につけ、他人の役に立てる者となれたとき、ようやくこよなき誇りと幸せとに満たされることができるのだと、気づくことができれば善いのだが。
作品名:Bhikkhugatika 作家名:RamaneyyaAsu