Bhikkhugatika
聖地安らかにして心楽し
たくさんの人たちが貪欲に任せて振る舞っているうちに、すっかり手も足も絡まってしまった、息の詰まる世間。和顔愛語で心を守り、なんとか折り合いをつけて、ささやかな貯金をしながら、晩学の身に鞭打って、こつこつとインド哲学を勉強した。
私はとうとう、憧れの土地にやってきた。リシュケシュのガンジス川に架かる細い吊り橋を歩いて渡って、その左岸、聖地スワラグ・アーシュラムに、私はついに立ったのだ。
ここではガンジスは澄んでいて、流れは激しい。急峻な山が迫っていて、美しい森には猿たちがいる。森の中を、清らかな沢が下っている。
町は、インド中からはもちろん、世界中からやって来た人々で賑わっている。牛たちは、都会の野良牛と違って、哀傷を誘うことはない。伸び伸びと過ごしていて、ただ美しいばかりだ。
寺院は、貧しい人々を受け入れていて、いつもそこかしこから歌声が聞こえる。私が見学に行くと、ひとりの老人が優しい笑顔で、君はひとりで旅しているのかね、寂しくはないかねと、私を気遣ってくれた。
平日の朝は、寺院のヨーガのレッスンに参加した。そこで出会ったリサというイギリス人の綺麗な女の子と仲良くなって、レッスンの後、いつも一緒に朝食を食べるようになった。慎ましくて気品あるリサに、もちろん私は淡い恋心を抱いたが、もちろん打ち明けることはできなかった。
ホテルでは、レオナルドというベルギー人と友達になった。彼は私の父親ほどの年の頃で、ナザレのイエスのような風貌で、底抜けに優しかった。私とレオナルドは毎晩、他の人たちも交えて、ホテルのテラスで、インド哲学についての話をしていた。
日曜日の朝、私は牛たちの散歩についていった。牛は朝に食事を兼ねて散歩するのだが、ついていっても気にしないので、一緒に散歩するような仕儀となり、私はひとりで和むのだった。
沢のところで牛たちと別れて、私は沢に沿う道を登った。滝壷に出ると、ひとりの出家僧が、布を頭から被って、岩の上に座っている。ヨーガに他ならぬ。私は彼の姿を見て、自分の心が濁っていることに気づき、恥じ入りながら彼に合掌して、立ち去った。
レオナルドはイタリア系なので、スパゲティに目がなく、昼食時になると、スワラグ・アーシュラムの北燐の町、ラクシュマン・ジュラにあるイタリア料理屋に行こうと、常に誘ってきた。私はたまに付き合って、ふたりで20分ほど歩いてラクシュマン・ジュラに行った。スパゲティを食べて、橋の近くに出ている屋台のサトウキビジュースを飲んで、橋のすぐ北に広い砂浜があるので、そこに行ってガンジス川で泳ぐのがいつものコースだった。ベルギーから来た老人と日本から来た中年が、童心に帰って、大はしゃぎで水遊びするのである。
その日はリサも一緒で、レオナルドと三人で泳いでいたとき、私は背泳ぎしていて、うっかり沖まで来てしまった。いかん、と思ったときにはもう流されていて、私は遥か下流のハリドワールまで行ってしまうと思い恐怖した。私はかつて経験したことのない必死さで泳いで、かろうじて岸に辿り着いた。ガンジスを見ると、私は50メートル以上は流されていた。そのとき岸にいた苦行僧が、私を見ながら、天を指差して、何事かを叫んだ。ヒンディ語なのはわかったが、私には「カルマ」の一語しか聞き取れなかった。しかしそれで充分だった。
けだし彼は、「君の悪業は流されて昇華した」と言ったのだ。そんなはずがないとは思った。私の私へのこだわりのために、私の人生の多くの場面で、私が損なってきた多くの人々。彼らが、私が溺れかけたと聞いたとしても、私がしたことが消えるはずもない。
私はただ、この見知らぬ土地の見知らぬ苦行僧との、この交わり自体が嬉しかった。彼によって、過去への私のこだわりは確かに少なからず昇華したように思えたのだ。それで私が彼に笑って合掌すると、彼もまた大いに笑って合掌してくれた。
レオナルドとリサが慌てた様子で駆けてきたが、ふたりは、私が清々しい顔で笑っているのを見て、安心してくれた。
私はもうすぐこの安らかで楽しい聖地を去って、騒がしい世間に帰らねばならぬ。そこで私の人生はもうしばらく続くように思えるが、いまではそれこそが楽しみでもあるのだ。
作品名:Bhikkhugatika 作家名:RamaneyyaAsu