Bhikkhugatika
二種の認識
その日私がカフェで煙草を吸っていたときのことだ。隣の席の三人の男が話をしていたのだが、ちょっと面白い仕儀となった。一人の男が言った。
「神はいるのだ。これは真理である」
すると残りの二人の男が、同時に同じことを言ったのだ。
「それは君の見解だ」
と。私は興味を引かれ、その有神論者がトイレに行った隙に、尋ねてみた。
「君たちはどういうつもりで、ああ言ったんだね?」
と。一人はひどく怒った様子でこう答えた。
「私は、こんなことを言う彼は馬鹿だと感じ、彼を否定しようと思ってあれを言ったのです」
もう一人は落ち着いた様子でこう答えた。
「私は、彼が言ったことの性質を感得し、その性質を伝えようと思ってあれを言ったのです」
次の日、同じカフェで、私はまた煙草を吸っていた。隣の席で、昨日とは別の三人の男が話をしていた。一人の男が、二人の男に言った。
「君たちの言っていることは曖昧でよくわからない」
私は昨日のことを思い出し、興味を引かれた。この男は、うんざりしたのかもしれない、カフェを出て行った。それで私は二人に尋ねてみた。
「君たち、ああ言われて、どう感じたんだね?」
と。一人はひどく怒った様子でこう答えた。
「私は、彼は私を否定したと感じました」
もう一人は落ち着いた様子でこう答えた。
「私は、彼が言う私の言ったことの性質を感得しました」
私はこのふたつの事象の観察から、自然哲学の一原理を発見したが、それを言うのは差し控えよう。というのは、我々が自然自身であるがゆえに備わっているあの神秘によって、自ら諸々の自然形態を縦横に展開して照合する以外に、我々がなにがしかを真に知ることはできないからだ。
作品名:Bhikkhugatika 作家名:RamaneyyaAsu