Bhikkhugatika
超自然
類推、帰納、演繹…なにがしかを知ろうという総ての知性の働きは、彼の注意が自然の中を駆け巡って見ることで働く。自然の外に何かを認めることは、矛盾している。自然の外にあるものを、何を見ることで知り得たのか。彼は、見ておらず、他人に聞いたのだ。
何かを理解したいと感じたとき、その何かとは自然のことであると看視しないなら、彼は秘密を知るどんな方法も持たない。彼は、疑問を解決するための行為を思いつかないので、何もしない。結果彼は、他人に聞いたことしか知ることができない。
人は、幼少時、人々から呼びかけられる。「君」、と。この、自ら自然を見て得たのでない、他人に聞いて得たおぼろな認識は、生命の衝動力によって結びつけられ、あるときついに少年の中に、「これは私である」と豪語して憚らぬ者を作り出す。彼は、彼によれば霊魂なる自らを自然の外に置くことで、他者のいかなる攻撃からも不可侵なものとする。それは自然の外にあるために不変であり、不滅である。自然界なる語をもって自らと自然とを分離した彼は、しかし生命の衝動力から生じたものなので、肉体の存続が自然によって危険にさらされるのをいつも恐れているし、肉体の存続のためには自然から出来るだけのものを手に入れようともがき苦しむ。だから彼はわずかでも身の危険を感じれば他人を侮辱するし、他人の侮辱には侮辱をもって報いるし、自分と他人をごまかすし、彼が欲しいと見なしたものを他人よりも出来るだけ多く手に入れるためには、あの手この手で他人を駆逐する。
そして、これらがどのような自然の状態なのか、見ない。彼によれば、彼は自然ではないから、見ることができないのである。
彼は、自己がどこにいるのかわからず、疲れてしまったようだ。喉が渇いている。コップに注がれた水を見つける。彼は感じる。「これは他者である」、と。彼は水を飲み、コップが空になったのを見たのだが、彼の知性は、依然として目を開くことがない。彼がいま考えているのは、引き続きインターネットやTVを見て他人の言辞を聞くことである。
作品名:Bhikkhugatika 作家名:RamaneyyaAsu