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未来の予感

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「え?」
「専門用語ですか?」
「うん。なんで知ってるの?」
「浅井さんの本に書いてあったのを見ました」
「そう。ルーメンは牛さんの第1胃」
「第1胃?」
「牛には胃が4つあるんだ。一番大きな胃が第1胃」
「そうなんですか」
 (光の単位じゃなかったんだ)
 この単語はずっと気になっていたので、頭の片隅でモヤモヤしていたものが消えて楽になった。

 酪農家に着いて車から降りると紺色のつなぎ服を着て赤いキャップを被った若そうな男が近づいてきた。
 結子をチラリと見ると「先生!今日は彼女連れて診療ですか?」と微笑んでいる。
「バカ野郎!」
 浅井が結子のことを紹介すると酪農家は「清水です」と言いながら頭を下げた。
 清水は浅井と同じようにスマートな体型で、顔はジャニーズ系だった。
 (酪農家って、こんなにカッコいい人がいるんだ)

「診察してくるから待ってて」
 浅井は聴診器を首からぶら下げながら細長い長方形の牛舎の中へ入っていった。

 牛舎の入口から中を覗くと牛舎の真ん中ぐらいで牛に聴診器を当てている浅井と通路でその様子をじっと見ている清水の姿が見えた。
 真ん中の通路を挟んで対面状に白黒模様の乳牛たちが奥まで繋がれていた。片側30頭として全部で60頭ぐらいはいるかもしれない。
 そのうちの何頭かの牛たちが珍しい訪問者である結子の方に目を向けていた。
 牛さんたちに見つめられているとなぜか恥かしくなってきた。

 結子が車の近くに戻って待っていると浅井が牛舎から戻ってきた。
「どうでした?」
「うん。大丈夫そうだ。注射1本打っておくよ」
 浅井は大きな注射器に薬液を吸うとまた、牛舎の中へ消えていった。


第8章

 それからの土日の休日には「浅井家畜病院」へ通うようになっていた。
 病院内の掃除をしたり、診療へ行く準備を手伝ったり、カルテの整理をしたり、一通りの雑用をこなすようになっていた。

「今の仕事辞めてもらって、この病院に勤めて貰おうかな?」と浅井が言った。
「え?」
「冗談だよ。とても君にまともな給料は払えないし」
 結子はそうしてもいいと思った。いや、できればそうしたかった。例え、小遣い程度の給料でも。

「痛っ!」
 指の先から真っ赤な血が滲んできた。
 左手の親指と人差し指で輪を作って、切れた右手の人差し指をぐっと握った。天井の蛍光灯から差し込む白い光に映えてあまりにも鮮やかな赤色だった。

「どうした?」
「アンプルで切っちゃいました」と指を見せた。
 これから牛の予防注射へ出かける準備でワクチンを注射器に吸っていた時だった。
「大丈夫?」
「はい」
 指には真っ赤な線が描かれていた。
 近づいてきた浅井は結子の人差し指を握ると自分の口に含んだ。指の先端に浅井の舌が触れている。
 (・・・暖かい)

 予期せぬ事態に戸惑ったが、彼の行為はごく自然なようにも見えた。
 (手も握ったこともないのに)

 自分の体内を流れていた血液が彼の口の中に飲み込まれてしまった。
 高鳴る心臓の鼓動に併せて指先が脈打つのを気づかれないように祈った。
 浅井は口から指を抜くと棚にあったイソジンを脱脂綿に垂らして傷口をポンポンと叩いた。指は茶色に染まりチクチクと痛みが走った。
 自分の血液が彼の胃の中に入り、消化されて吸収されていく。そして、彼の体の一部に再合成されていく・・・。
 浅井が傷口を絆創膏で巻いていく動作を見ながら結子はそんなことを考えていた。
「はい。これで大丈夫!」
「すみません」
 
 その日は予防注射が5件と診療が3件ほど入っていた。
 真夏の青い空に白い入道雲が浮かんでいた。車には容赦なく、日射しが照りつけていて天井から熱気が伝わってくる。エアコンの効きが悪いので額から汗が流れてきた。
 真っ直ぐに前を見つめながら運転している浅井の横顔を見ると頬に汗が流れていた。

「暑いですね」
「ああ。こう、暑いと熱射病が出そうだなあ」
「外で仕事している人は大変ですよね」
 浅井は結子の顔をチラッと見てからボソリと言った。
「牛のことだよ」
「え?」
 牛にも熱射病があるなんて知らなかったけど、この車の中にいると自分が熱射病になりそうな気がした。

「君はなんで獣医を目指してたの?」
「え?」
「いや、前に、獣医になりたかったって言ってたから」
「小さいときからの憧れです」
「憧れ?」
「子供の時に犬を飼ってたんですけど、交通事故に遭っちゃって。もう、死んじゃうって思って。それで、両親が動物病院に連れて行ってくれて一命を取り留めたんです」
「そう」
「その時、手術をしてくれた白衣の獣医さんを見て、自分は将来、獣医さんになるんだ!って」
「そう」
「よく、ありそうな話でしょ?」
 浅井は何も言わずに前を向いて運転をしている。額の汗を腕で拭き取ってからボソリと言った。

「それで、もう、諦めたの?」
「え?」
「獣医になりたかったんだろ?」
「ええ。でも、私の頭では大学に受かりそうにないし」
「それでいいの?」
「え?」
「今からでも頑張れば?」
「でも、今からは・・・」
「君なら、いい獣医さんになれると思うけど」
「・・・」

 一軒目の酪農家に着くと浅井はいつものように聴診器を牛にあてて診察を始めた。この牛は2日前にお産してから食欲がないらしい。
「体温、測ってくれる?」と浅井が言った。
 結子も最近は牛舎の中へ入って浅井の助手のようなことをするようになっていた。
 体温計を牛の肛門に入れようとした時だった。
 牛の後ろ足が結子の胸を直撃した。
 肛門に異物を入れられた牛がビックリして後ろにいた結子を蹴り上げた。
 1mほど飛ばされて通路に仰向けになって倒れた。蹴られた胸と倒れたときに打った頭の痛みの中で周りの景色が見えなくなっていく。
 遠のく意識の中で自分を抱える浅井の「大丈夫か!」と叫ぶ声が聞こえていた。


第9章

 結子が目を開けると病院のベッドの上に横たわっていた。ゆっくりと周りを見渡すと真衣が側に座っていた。

「結子。大丈夫?」
「真衣?」
 言葉を発すると胸と頭に痛みを感じた。
「ああーよかった」
「病院にいるのね?」
「そうよ。大変だったんだから。救急車で運ばれたのよ」
「そう」
「脳震とうと打撲だったみたい。骨も異常ないみたいだし」
「そう。今、何時?」
「7時10分ね」と真衣が腕時計を見ながら言った。
 浅井の診療に同行して牛舎で牛に蹴られて意識を失い、この病院に搬入されたようだ。

「浅井さんは?」
「え?」と真衣が怪訝な顔をしながら言った。
「浅井さんも来てくれたの?」
「・・・。浅井って、誰?」
「え?あの浅井さんよ」

 真衣は心配そうな顔をしながら結子の顔を覗き込んだ。
「結子、大丈夫?」
 
 真衣が知らない筈はない。
「私、牛に蹴られて意識が無くなって、ここに来たんでしょ?」
「そうよ」
「だから、浅井さんの診療に一緒に行って牛に蹴られたのよ」
「・・・何言ってるの?」
「何って」
「どうしたの?意味がわからない」
「からかわないで。怒るわよ」
 しばらく、押し問答になった。
作品名:未来の予感 作家名:牛若丸