未来の予感
真衣は呆れたように「今日はゆっくり休んで。明日また来るから」と言い残して帰って行った。
結子はベッドの上の天井を見つめながら記憶を辿っていた。確かに、牛舎で牛に蹴られて意識を失った。
その時、浅井の腕に抱きかかえられていた筈だった。
気がつけばここにいた。真衣が浅井のことを忘れる筈がない。でも、知らんぷりする訳もない。
わからない・・・。
(きっと、明日、浅井さんが見舞いに来てくれるわ)
結子は自分にそう言い聞かせて目を閉じるとそのまま眠ってしまった。
第10章
翌日の夕方の6時を過ぎても浅井は現れなかった。
(今日は診療が多かったのかな?)
7時頃に真衣が見舞いにやって来た。
「どう、気分は?」
「うん。大丈夫よ。昨日はゴメンね」
「ううん。少しは落ち着いたみたいね」
「まだ、頭がまだボーとするんだけど」
「無理しないでゆっくり休む方がいいわ」
「ねえ」
「ん?」
「私、ホントに何してたの?」
真衣は事の次第を言い聞かせるように話してくれた。
結子はぼんやりとその話を聞いていた。
結子は大学の午前中の授業で牛の内科実習を受けていた。結子が体温計を牛の肛門に入れた時に胸を牛に蹴られてはじき飛ばされたようだった。
倒れた時に頭を打って脳震とうを起こしたらしい。
救急車で病院へ運ばれたが、意識が戻らなかったようだ。
病室に移動してからもしばらくの間、大学の先生と同級生たちが見守っていてくれたらしいが、6時を過ぎた頃に帰って行った。親友の真衣だけが残ってくれて病室で見守っていたらしい。
結子は大学の獣医学科に在籍する4回生の学生だった。つまり、獣医師の卵だった。
看護師でもなく、贈答品店で働いてもいなかった。
定食が美味しかった「つるや」もボロボロの「浅井家畜病院」も現実には存在しなかった。
浅井という獣医師に一目惚れをして恋をしていたのは意識を失っている間に見ていた夢だった。
真衣の話はすぐには受け入れられなかった。
でも、時間が経つにつれて薄れていた記憶が戻ってきていた。
それでも、浅井がふと病室に来てくれるんじゃないかと期待していた。
(彼に逢いたい)
結子は入院してから3日目に退院した。
待っていた浅井がこの病院を訪れる事はなかった。
(はあー、やっぱり夢だったのか)
それから結子は大学で講義を受けたり、実習をしたり、以前と変わらない学生生活を過ごしていた。
(これが私のいた場所なの?)
秋の心地よい風が吹き抜ける学内は以前と何も変わらなかった。学生たちが楽しそうに話しながら通り過ぎてゆく。
一人で歩いていた結子は大きく溜息を吐いた。
(一目でいいから浅井さんに逢いたい)
いくら彼のことを想ってもそれは夢の中で出会った架空の男でしかない。
そんなことは十分に分かっていた。
卒業してからは動物病院で働いて犬や猫の診療をしたいと思っていた。
でも、今は違った。牛の獣医師になりたいと思っている。
(浅井さんのような獣医になりたい。もしかしたら、浅井さんに出逢えるかもしれない)
そんな馬鹿げたことを期待していた。
(夢から覚めてもまだ恋をしている)
「そう。そんな夢を見てたの」
学内の喫茶店で真衣と紅茶を飲みながら自分が意識を失っていた時に見た夢の内容を話した。
話していると、夢か現実かの区別がつかなくなった。
「うん。まだ、夢だった気がしないわ」
「三途の川、渡る夢じゃなくてよかったじゃない」
「バカ」
「私もそんな夢を見てみたいなあ」
「まだ、彼のことが忘れられないの」と結子は窓の外を見ながら言った。
「夢の中の人に恋をするなんて、ステキね」
「辛いだけよ」
「そうかも」
「逢いたくても逢えない・・・」
結子はまた、大きくため息をついた。
「ああ、辛いわ」
「時が経てば忘れられるって!」
「そうかな」
「でも、正夢かもよ」
「え?」
「その浅井さんに将来出逢うのかもしれないわよ」
「・・・」
真衣に言われて微かな希望を感じていた。
(そんなこと、起きるわけ無いけど)
「私もその夢の登場人物になれて嬉しいなあ」と真衣が微笑みながら言った。
窓の外を見ると天高い秋の空に白い雲が浮かんでいた。
きっと、いつか、また、浅井に逢えるような予感がした。
額から汗を垂らしている浅井の顔が頭の中を横切っていった。