未来の予感
(あさいっていう名前なんだ)
結子がボーっと男の行方を追っていると真衣が言った。
「結子!」
「え?」
「何してるの!」
「え?」
真衣は席を立ち、その男がいたテーブルの上に置いてあったタバコとライターを取り上げて結子に見せた。
(忘れたんだ)
「早く!追いかけて!」
真衣から男の忘れ物を受け取ると言われるがままに席を立ち、食堂の外へ出た。
男は車に向かって足早に歩いていた。結子はその後を走りながら追いかけた。
男が車に乗り込もうとした時だった。
「あっ、すみません!」
男は結子の呼びかけに気づいて振り返った。
「これ。忘れ、物です」と息を切らしながら手に持っていたタバコとライターを見せた。
「あっ。すみません」と言うと男が結子に近づいてきた。
「すみません」と男は頭を下げると忘れ物を受け取った。
「お急ぎ、なんですね?」
「ええ。牛のお産が近くて」
「牛?」
「はい」
「もしかして、獣医さんですか?」
「ええ」
(もっと話したいけど急いでいるようだし)
束の間の沈黙を破ったのは男だった。
「あのう」
「はい」
「よくこの店に来られてますよね?」
全く予期せぬ言葉だった。自分の存在に気付いていてくれたとは夢にも思わなかった。
「よかったら、今日のお礼に、今度おごらせて下さい」
「そんな、お礼なんて・・・」と結子は手を振った。
「じゃあ、また」と言うと男は車に乗り込んだ。
遠くに離れていく車体を見つめながらその存在が自分に近くなってくるような気がした。
店に戻ると真衣がニヤニヤしている。
「顔がにやけてるわよ」
「そう?」
「大成功みたいね」
「真衣には感謝するわ」
「まかしといてって、言ったでしょ」
「こうなること、予想してたの?」
「まさか。もっと違うこと計画してた」
「何?」
「結果オーライよ。気にしないの」
「まっいいけど。ありがとう」
「神様も味方してくれたけど、この貸しは大きいわよ」
真衣は悪戯っぽく言った。
第7章
それから、「つるや」で毎日のようにその男、つまり浅井と同じテーブルで食事をするようになっていた。
浅井は大学の獣医学科を卒業してから農業共済連の家畜診療所というところで6年間勤めていたそうだが、去年、独立して開業したらしい。歳は35らしいので結子よりも10才年上になる。
一目惚れしていた浅井と一緒に夕食をするなんて、夢みたいなことが現実になっている。
初めて出逢ってから半年ほどが経っていた。
浅井は以前のように本をテーブルの上に広げて読み更けることはなくなっていた。
読んでいた本は「臨床獣医」という専門雑誌らしく、牛の治療に関する文献が載っているらしい。
忙しくてなかなか読めないので、夕食の時に読むようにしていたらしい。
「私に気にしないで読んでくださいよ」
「いいよ。暇つぶしだったし」
「でも・・・」
「ところで、よかったら、今度、うちのボロ病院に来てみない?」と浅井が言った。
「えっ、いいんですか?」
「じゃあ、今度の日曜日は?」
「はい!大丈夫です」
日曜日に「つるや」の駐車場で待ち合わせをして浅井の病院へ行くことになった。
住宅も兼ねている病院は浅井が言ってたとおりの「ボロ病院」だった。古い木造の平屋建ての民家を改造したらしく、屋根瓦には緑色した苔がチラホラと見えた。
何となく屋根の線が歪んでいるようにも見える。家の中には蜘蛛の巣が張っているような気がした。
結子はしばらく口をポカンと開けながら見ていたかもしれない。
(これが病院?)
病院の玄関の上には「浅井家畜病院」という看板が掲げてあった。
木の板の上に白いペンキで、手書きで書かれているその看板は妙にこの「ボロ病院」にマッチしているような気がした。
「ボロ病院だろ?」
「えっ、そうですね」
「ハハッ。正直だなあ」
「あっ、すみません」
浅井は玄関の開き戸を開けると「どうぞ」と言った。
結子が先に中へ入ると室内は予想に反して整然としていた。
部屋の広さは10畳くらいで窓から光がたっぷりと注ぎ込んでいて明るい感じがした。床は綺麗なモルタル塗りで、木の香りが漂っていた。
真ん中には4人が座れる応接セットが置いてあり、壁際には薬品が並べてある戸棚が置かれている。その他には薬品が入ったガラス張りの冷蔵庫や検査器具らしいものなどが壁に沿って並んでいた。
結子は応接セットに座りながら部屋の中をジロジロと眺めていた。
浅井は小さな冷蔵庫から缶コーヒーを2本取り出してテーブルの上に置いた。
「どう?中は綺麗だろ?」
「ええ。ちょっと安心しました」
「安心?」
「外見があんまりだったから」
「ハハッ。外見は気にしない」
「そうですね。でも、牛さんはどこで診察するんですか?」
「さすがにこの部屋には入らないなあ」
「ですよね」
「牛が大暴れするとおしまいだ」
「・・・ですね」
「病院だけど、ここでは診察しないんだ。診察するのは牛舎にいる牛なんだ」
「そうなんですか」
「ここは準備室みたいなものかな。車庫に車があるんだけど。必要な器具や薬やらを積んで牛を飼っている農家を回るんだ」
(牛の獣医さんは往診専門なんだ)
「よかったら、今から一緒に行ってみる?」
「いいんですか?」
「調子の悪い牛がいるんだ。そこの酪農家はおもしろい奴で。僕より一つ年下なんだけど。よく飲みに行ったりするし、友達みたいな奴だから」
「そうなんですか」
「準備するからここで待っててくれる?」
浅井は器材を積み込むために隣の車庫にあるらしい車と病院内を慌ただしく往復している。
時々、立ち止まってアゴひげを触りながら天井を向いて考えるような仕草をしていた。
そして、何かを思い出したように戸棚や冷蔵庫にある薬品を取り出した。
しばらくすると、積み込みが終わったようで浅井は壁に掛けてあった薄汚い白衣を着ながら「じゃあ、行こうか」と言った。
車庫には白い軽自動車のバンが停めてあった。両サイドのドアと後ろのドアに「浅井家畜病院」と書かれていた。手書きではなかったのでちょっと安心した。
酪農家までは車で15分くらいかかるらしい。
「私ね、これでも獣医さんを目指していたんです」
車が走り出してから結子は言った。
「へえー、そうなんだ」
「でも、頭悪いから諦めましたけど」
「最近は女性の獣医師が増えていて、半分は女性なんだよ」
「へぇ-、そうなんですか」
「女の子はよく勉強するから獣医の大学の偏差値が上がってるらしい」
車は市街地を抜けて田んぼや畑が広がる道を進んでいた。
もうすぐ、田植えの時期が始まるので、水を張っている田んぼが陽の光を反射してキラキラと眩しい。
「獣医さんって、外科も内科も産科も、全部やるんですよね?」
「ぼくは外科専門です、って言ってたら、食っていけないよ」
「すごいなあ。覚えることって山ほどあるでしょうね」
車は新緑が鮮やかな山道を上り始めた。車のエンジン音が大きくなり、「頑張れ」って声をかけたくなる。
「あのう」
「ん?」
「ルーメンって何ですか?」