ナイトメアトゥルー 3
乳管洞は乳腺葉で作られた母乳を貯蔵するため大きな空間となっている
ある意味の中間地点。
ここを通りすぎていけば乳腺葉に行きつくってわけか。
洞窟内に突如現れる鍾乳洞のような大きな空間をながめつつ歩みを進める。
ここで、ミリアが歩みを止めた。
それに合わせこちらの歩みを止める。
ミリアの背中が何かを語り出そうとしている。
だが、いっこうに話そうとしない。
歩みを進めていた時とは明らかに違う沈黙が乳管洞を支配する。
あの時は仕方なしの沈黙、今回はあえての沈黙。
ミリアは振り向かないまま言った。
「お前はご主人の胸の中のことを全然わかっていない。」
どこの方言もイントネーションの訛りも無い、ごく普通の標準語だった。
今まで遠くに聞こえていた工藤 ユキの体内を巡る血液の流れる音が、にわかに近くに聞こえるほどになった。
胸の中?
胸って…?
わかってないと言われても…。
「え…、あぁ、まぁ、あまり、学校とかじゃ教えない器官だもんな。」
乳管洞や乳腺葉とかは雑学の範囲で覚えたことだから間違っていたのか?
女性の胸の中について正しい教育が無かったせいだ。
しかし、ミリアは振り向きざまに呆れ気味の表情を浮かべている。
「あ〜あ、愚かだというのは智能の鋭鈍では無いと言うのはお前の為にある言葉だな。」
こいつ、普通に標準語で喋れるじゃねぇか…。
それにそれを言うんだったら、
(愚かだというのは智能の鋭鈍では無く何かに囚われているか)だろ。
偉大な歴史小説家の言葉を無理になぞらえるな。
「お前のその言動で私の二人のご主人とその周りの人間は辛い気持ちになっている、それに対してお前はそれを解決させるどころか、より一層混乱させている」
「何のことだ?」
「まだ気がつかぬか!?」
ミリアの尻尾はピンと水平に張っている。
怒っているのか?
「じゃあ、私から言わせてもらうぜ。
私の二人のご主人、追浜 叶絵と工藤 ユキ、そして委員長の待瀬 清麗は…。」
ミリアはそこまで言いかけてやめた。
彼女は何かに気がついたかのような表情の後、焦燥を帯びた顔となった。
「どうした?何か不具合でも起こったのか?」
ここまで言われて途中で切られるのも煩わしい。
「ニオイが消えた…。」
「おいおい、これからどこの乳腺葉にあるか見つけるんだろ?」
首を横に振り、どこか申し訳なさそうだ。
「強いニオイにかき消された。それは甘くてどこか懐かしいニオイ。」
ミリアが時代も地方もバラバラで舌足らずな風での喋り方から、急に滑舌の良い標準語で喋り出したことに質問をはさみたかったが、今はそれどころではない。
俺の抜け殻がどこにあるかを確実に捉えていなければならないのに、ニオイがかき消され見失うことは砂漠の中で水袋を失くすのと一緒である。
乳腺葉は10数個あり、
それぞれが幾重にも枝分かれしている乳管の先にある。
そのため、1つの乳腺葉に辿りつくのも難義であるのだ。
最悪のケースの場合、捜索を乳腺葉の数だけ繰り返さなければならない。
そして、この低酸素が輪をかけている。
心無しか呼吸が苦しい。
つまり、果てしない海洋の上で羅針盤を失ったと同義なのである。
そのような状況でここからは勘を頼りに進むしかない。
折れそうな心をどうにか奮い立たせようとする。
弱い所をミリアには見せたくなかったが、そこは動物らしく人の感情の起伏を読み取るのが上手かった。
「大丈夫、心配するな…。」
ミリアがそっと近づいてくる。
優しくされるとつい弱気が表に出てしまう。
「でも…どこにあるかはもうわからないんだろ?」
(そんなことを言うな…。)
そんなことを言ってしまった自分を責める。
だが、ミリアは尚も俺の不安げな心境を汲み取っているようだ。
「ニオイがした方角はだいたい覚えているから、多分、お前の抜け殻がある場所はわかる。」
と言うと振り向き、右側を指差した。
自然とミリアの華奢な背中とモフモフの尻尾が視界に入る。
そこで俺はとことん人の考えていることを汲み取れない人間だと痛感した。
何故ならば、犬耳を持つローブ姿の美少女はシュンと尾を垂らしていたのだったからである。
そうか…、そうだよな。
こいつだって不安だったんだ。
犬の感情は尻尾にでる。
その尻尾に出た感情表現でしかミリアの心情を察してやれていなかったのだ。
ミリアは不安な気持ちを抱えている中、俺を励まそうとしてくれた。
だったら、ここはミリアを信じるしかない。
後ろからミリアの肩をポンと叩く。
「例え失敗しても俺はお前を責めない。」
背中越しでもクスリと笑った表情は確認できた。
「感謝する。」
ミリアの力強い返事に尻尾の様子は見るまでも無いと思った。
「なぁ、ところで、何で急に口調が変わったんだ?」
「え?別に変ったとは思わないけど…」
…。
あんだけ変な方言使っておいて自覚無いんだ…。
※
そのままミリアの先導でようやく1つの房のような場所の入口に着いた。
乳腺葉に到着である。
乳腺葉は小さな房の集合体が大きな房を作っていた。
その房の中央部に空間ができている。
ミリアが狭い入口の前で房の中を指差す。
「ニオイの記憶では…確か…ここ…。」
ここはミリアを信じるしかない。
「とりあえず入るか。」
乳管から乳腺葉の中に飛び込む。
天井・床・両壁の四方がトランポリンのようであり、1つの所で弾めばその反対側に弾み返される。
この大きな房を構成する一つ一つの小さな房から母乳が出るのか…。
そう考えると人体の神秘である。
さて、俺の抜け殻は分子程度にまで小さくなっているのだからそのサイズまで小さくなる必要があるな。
目をつむり念じ始める。
すると、なんらかの液体が体に触れた。
周りを見回す。
なんら変わった様子は無い。
もう一度目をつむり念じる。
すると今度は、液体が頭に着地した。
何かが起こっている。
そう確信して今度はくまなく辺りを見回す。
「なっ…なんだこりゃ…!!」
そう叫んだのは、この一瞬の間に様相が著しく変わっていたから。
なんと上下左右の小さな房達のそれぞれから白濁色の液体がじわりじわりと湧き出ているのだ。
こ…、これは…。ま、まさか……、あれか…。
「馬鹿な…ご主人は母乳を出せるほど体が成熟していないはず!」
乳腺葉の入口付近で待機していたミリアが異変を察知し乳管から乳腺葉の中に飛び込んできた。
湧き出てくる白濁ながらも黄色味がかった液体は俺の動きをさらに束縛している。
「くっ、足が…。」
ミリアも乳腺葉を構成する風船のような房に足をとられ思うように進めないでいる。
そして、あっという間に白濁色の液体はくるぶし辺りにまで水位を増していた。
ミリアと目が合う。
ミリアがはっきりと白濁色の液体の正体を言ってくれたおかげで堰が切れる。
「おい、そもそも母乳って妊娠をきっかけにして作られるのだろう。
それに妊娠していない人で母乳が出る場合でも出産の経験が必要なはず…。」
おぼろげな知識ながらも同意が欲しいため叫ぶ。
その回答権を持っているミリアは、足をすくわれ膝をついてしまった。
だが、ミリアはすぐに体勢を立て直して叫ぶ。
作品名:ナイトメアトゥルー 3 作家名:ウエストテンプル