この声が届くまで 続この心が声になるなら
そんな子どもみたいな、だけど切実な気持ちを伝えたくて、ついつかんだ指先に力が入って、
「ありがとう。僕も、君が恋人でトウヤが親友で、みなみちゃんが親友の奥さん。それが一番幸せなんだ」
そう言って、嬉しそうに、柔らかく笑ってくれる。「言ってもいいのかとかあいつはそんなこと知りたいだろうかとか考えているうちに、僕の口から言い損ねたのは、……良くなかったなって、思うけど」、そう言ったとき、少し寂しそうにその表情が曇ったけれど。
ほら、我慢しなくていいんだ。夏芽さんのまわりにいるひとたちは、たぶん夏芽さんが思っているよりもずっと、夏芽さんの言葉を、こころを、待ってる。早く、はやく、このひとがそのことを、信じてくれればいいのに。
だけど夏芽さんがそれを信じるようになったときに、俺はこのひとの彼氏で、いられるんだろうか。
ちゃんとこのひとの、一番好きなひとで、いられるんだろうか。
「ね、夏芽さん。恋人らしいこと、させてください。……誕生日、知ってたら盛大にお祝いしたのに、殻神さんが言うの聞いて知るなんて、彼氏として情けないです。なんでもいいです、夏芽さん、お祝いさせてください」
しゃがんで、即席のソファに腰かけている夏芽さんを目線を合わせた。夏芽さんはきょとん、とした顔をした後、すぐになにかを考えているような顔になる。
お祝い、お祝い……と繰り返して呟いて、そして、
「……今特にほしいものはないから、誕生日はいいよ。僕のせいで今日バイトも休ませちゃったし、君のお金は自分の為に使ってくれ」
そんなことを申し訳なさそうに言われて、俺は、少し、数秒、反応できなかった。なんだろう、この違和感。
「そんなこと気にしないでいいですし、物じゃなくてもいいですよ」
「え?」
夏芽さんの家は、きっと楽しくない。それは、ある程度は確信していたことではあったけど。
一人っ子だ、両親はいるらしい。なのに、なのに。このひとの誕生日の認識って、もしかして。
「…………あの、えっと、殻神さんとか、湯上さんとかとは? 毎年お誕生日って何をしているんです?」
おうちではどうだったんですか、なんて、聞けなかった。
「あ、トウヤは毎年実家の野菜や乳製品を送ってくれるよ。あいつの家も、農家さんなんだ。ユノさんのプレゼントは、だいたい下ネタかエログッズだけど、ほとんど使えなくてうちのクローゼットに入っているかな」
夏芽さんちでたまに見かけるたちの悪いあれこれは湯上さんか。予想はしてたけど、でも。
「他のひとのを、お祝いしたことは」
「あるよ。……毎年君にはケーキを焼いていたけど、覚えていないかな。あと大学のときのサークルでは月例で誕生日会をやっていたけど、僕は物より料理担当だったな。トウヤとユノさんとゆいゆーは毎年くれるからお返ししてる」
頭を抱えそうになって、踏みとどまった。違う、なにかが根本的に違う気がする。いや、たぶん殻神さんたちは間違ってない。このひとの、誕生日の認識が、間違っている。ちゃんと毎年この人は俺に手作りのケーキをくれていた。そう言われてみれば、祝ってほしくて誕生日を教えたことはある。そうしたら夏芽さんは「何がほしい?」と聞いてきて、手作りのケーキがほしいと言ってみたら作ってきてくれたんだった。それはすごく嬉しかったし当然すごく喜んだけど、あのひとにとってはお祝いどうこうじゃなくて、「俺の誕生日だから、俺の好きなケーキをプレゼントする」という認識だったのか。そこに、このひとが俺を好きで、俺の好きなものをあげて喜んでほしい、という要素が入っていたとしても、何かが、根本的にずれている。だから自分の誕生日は俺に教えなかったのだ。ほしいものも特になかったし、俺に負担をかけるだけだと思っていたから。
たぶんこのひとにとって誕生日って、「プレゼントや食べ物をもらう日」という認識なんだ。そう考えたら、すごく納得がいった。
「修吾君?」
違う、違うそうじゃない。正直日本のクリスマスだったらそれで合ってるかもしれない。でも、誕生日は、ただの年を取る日、プレゼント交換の日じゃない。すること自体はそんなに間違ってないし、だいたいこのひとだって何度も何度も誕生日を迎えるキャラを演じたことがあるはずだ。
だけど、考えたことがなかったんだろう、知らなかったんだろう。「どうして」誕生日を、祝うのかを。
「あの、あのね夏芽さん。俺にとっては……今日は、夏芽さんが、この世界に生まれてきたことを祝う日です。俺にとってうれしい日なんです」
夏芽さんが黒い目で俺を見る。最近わかってきた、この表情は、相手が何を言っているのかがとっさにわからなかったときにする顔。
「誕生日って、そのひとが生まれてきた日だから、そのことをお祝いする日なんです。俺は夏芽さんが生まれてきてくれて、すごくうれしいです。夏芽さんがいなかったら、夏芽さんに会えなかったら、俺は、俺の今はきっと、こんなに幸せじゃなかったです」
もしも夏芽さんの家が普通だったら、彼と出会うことがあったのだろうか。同じように、俺が普通に字が読めたら。そんなことを考えて、自分はともかく夏芽さんの不幸を喜んでいるようで嫌な気がするけど、でも、でも、それでも俺は、このひとと、この三十年をこうして生きてきたこのひとと、出会いたかった。
運命なんだと思いたい。……どちらかひとりだけが、この今にたどりつかなくてよかった。ふたりで、今ここにいられて、よかった。夏芽さんが、ここに、今この時間のこの世界にいてくれて、本当によかった。
「誕生日、おめでとうございます。生まれてきて、生きてきて、俺と出会ってくれて、ありがとう」
その目が、じっと、俺を見る。口が声を出さずに小さく動くけど、たぶん、俺の言葉を反芻している。
「あの、修吾君」
ややあって、夏芽さんが少しだけ硬い声で言った。
「もう一回、言ってもらえるかな」
ほんのわずかに、緊張ににじんだ、ぎこちない声。俺に対してさえ、まだなにか頼みごとをするのは怖いのだろうか。そんなこと、嫌だと思うわけがないのに。
このひとの願いなら、なんだって叶えてあげたいと思うのに。
「生まれてきて、生きてきて、俺と出会ってくれてありがとう。誕生日、おめでとうございます」
同じ言葉に、さっき以上の思いを込めて、それができるだけ強く強く伝わるようにと願いながら、その肩を抱きしめた。
ちゃんとした、まぎれもない男の、それも今日三十の大台に乗った年上の大人の肩なのに、時々、幼い子どものように感じるのはなんでだろう。家で台本チェックするその姿は、仕事に打ち込む人のもので、マイクの前に立つこの人の背中は、あんなにも頼もしいのに。
「お礼を……ありがとうって言わなきゃいけないのは、僕のほうだ」
少しだけ迷ったように手がうろうろしてから、俺の背中に夏芽さんの手が回る。そして、ぐっと顔を肩に押しつけてきた。
唇が、何かを言おうとしているのか、動くのを感じる。だけど、声にはなっていない。急かさないように、その言葉を待つ。息遣いと心臓の音に、緊張が現れているけれど、それでも付き合い始めた頃よりはだいぶ、落ち着いた音になってきたと思う。
作品名:この声が届くまで 続この心が声になるなら 作家名:なつきすい