この声が届くまで 続この心が声になるなら
ずっと、ずっと、好きだった。時間はかけたしこの気持ちに少しも嘘はない。だけど、それこそこのひとの、事故みたいに偶然俺に見せてしまった弱みにつけこんだことでこのひとの気持ちをたまたま手に入れることができたのだとしたら。そのことはちゃんとあの日に白状したけれど、それでも、こんな自分を好きでいてくれたことがうれしいと、好きになってほしいと思ってくれたことがうれしいと言ってくれた。だけどそれが特別じゃなくて、俺はたまたまあのときあの場所にいた、たくさんいる夏芽さんを好きな奴のひとりだったのだと、そう、思ってしまったとしたら。それが、すごく、どうしようもなく怖い。
みんなが優しいことに気づいてほしい、でも、俺だけ見ててよ。
そんな情けない願いを、やっと夏芽さんに触れられたあの日からずっと、俺は抱え込んだままでいる。
「……わかった、本当にごめん。この埋め合わせは、必ずする」
そんな情けないことを考えていると、どうも電話が終わりそうらしい。だからもうそったこと気にすんでねえ、と殻神さんの声がして、いままさに夏芽さんが耳から携帯を離そうとした、とき。
「あ! ナツメ待て誕生日おめでとう!」
「え」
「あ」
思わず出てしまった間抜けな声を、夏芽さんに気づかれてなければいい。
なにそれ、誕生日? 誰が? 夏芽さんが?
「お前ももう三十路だもんな俺もだけどなんか三十になると急におっさんになったような気ぃしねか?」
ありがとう、という夏芽さんの言葉も届いたのかいないのか、かぶせるように話す殻神さんの声は、弾んでいる。
誕生日、三十歳。
頭が、止まった。なんだそれ、今日っていつだっけ。そういえば、夏芽さんの誕生日って、いつ?
「うわああああああ!!」
なんだこれ、不覚だ、不覚すぎる。
恋人の誕生日を知らない、とか、どこの世界にそんな彼氏がいる! ここか!
思わず叫ぶと夏芽さんがこっちにすごい勢いで顔を向けた。綺麗な黒目がちの目が、大きく見開かれてしまってて、慌てて口を押さえたけれどもう遅い。
「おいいまの叫び声なんだ……誰かそこにいんのか?」
ああ、 殻神さんのこんな歯切れの悪い声、初めて聞いた。どうしよう、どうしようどうしよう。
「ああ、うん、いま支倉くんの家に……涼みに来ているんだ。うちのエアコン、昨日の雷で壊れてしまって」
「支倉君ってあの大きい子か。もしかしてそれで具合悪くなって今日来れなかったのか? お前暑いのだめだろ確か」
殻神さんの流石の頭の回転の速さで出てきた考えは見事に大当たりで、夏芽さんはそうなんだ、病院に連れて行ってもらっていて忘れちゃって、本当にごめんと返している。
だけど、そんな音がするすると右耳から入って左耳から抜けていくみたいに、頭の中で言葉にならない。そうだ、確かに俺は、夏芽さんの誕生日を、聞いた覚えがない。
「本当は今日プレゼント渡そうと思ってたんだけども生ものでねぇし今度会った時渡すけどさせっかくの誕生日にお前ほんと災難だったな」
「でも支倉くんが電話をくれなかったら、今頃僕は茹でられて死んでいたのかもしれないから、運が良かったんだよ、たぶんね」
頭を抱える俺の横で、そんなことを言う夏芽さんの声は本当に穏やかで、柔らかくて、嬉しそうで、
「あーしたら支倉くんに代わってくれねぇ? 俺にもお前んとこ助けてくれたお礼言わせてくれよ」
目の前に差し出された夏芽さんの携帯電話の意味に、少しの間気づかなかったほど。
「トウヤがきみと話したいって」
俺の顔を下から覗き込みながら言う夏芽さんの手からそれを受け取っても、まだ俺はぼんやりとしたままで、おーい繋がってるかー、と呼びかける殻神さんの声にはっと我にかえった。え、なんで、俺いきなり殻神さんと話すことになってんの。直接話したことなんて、一度もないのに。
「え、あ、あの」
「あー支倉君俺誰かわかる?」
「は、はい! 殻神トウヤさん、ですよね」
「そうそう一回セブンゴッズの収録で会ってるよな?」
「えっ?」
「覚えてねえのかよほらあの一期の支倉君が盗賊役で出てたときあったべ?」
必死に記憶の糸を手繰り寄せても、あの回、俺が初めてテレビアニメの収録に参加したあの日、夏芽さんと出会った、あの日、台本の中身以外に覚えているのは、夏芽さんのことだけだった。
「あの時俺収録見に行ってたんだよオーディションと先行のドラマCDでナナイがほんとすごかったからさアニメであいつがしゃべるとこどうしても見たくって見学ナナイ回に合わせてもらってさぁ」
間違いなく、その日だ。なのに俺の記憶の中に、殻神さんに関することはひとつもない。なんて答えよう。あんな脇役でも俺のことを覚えていてくれたのは、たぶん俺の背丈が目立ったからだ。少なくとも話した記憶は、ない。
「あーでも覚えてないかなあのとき支倉君ずっとナツメにべったりだったもんな。結構前だけどあのときからもう仲良かったの?」
「あ、いえ、あの……あのときに、仲良くなってもらいました」
そんなことを返すと、俺より耳が良くないから会話は聞こえていないのだろう夏芽さんが、即席ソファの上で不思議そうに首を傾げている。そうなんだあの日が初対面なんだ、と早口で言うトウヤさんの声。ああこのひと、初めてまともに話すのを聞いたけど、こんな声だったんだなぁ、時々夏芽さんが物真似する口調まんまだな、そんなことを思、っていると。
「したっけなんだ俺がキューピッド役ってことか」
は、と、声を出そうとして、だけど口からひゅっと出たのは上手く音にならない変な息だった。キューピッド役って、このひとはなにを言ってんだ。え、それって、あの、そういうこと? 夏芽さんはもう話したのか。殻神さんの婚約者のことは、俺には教えてくれないのに。
俺の様子がおかしいのに気づいたのか、夏芽さんは表情を不安そうに俺の顔を覗き込んでいる。頭がぐるぐるして、何をすればいいのか、俺はなんて言えばいいのか、殻神さんに、夏芽さんに――
「罠にかけるみたいなことしてごめんな。君だったんだな、支倉君」
何も返せないでいると、受話器の向こうからそんな言葉が聞こえて、はっと意識が現実に引き戻された。罠? なんのこと?
「最近ナツメが妙に明るくなってなんかあったのかなこいつ彼女でもできたのかなと思って片っ端からこいつと仲良くて俺も知ってる女の子に今みたくカマかけるの会うたび試したんだけど全員はずれでさー」
「…………は、あ」
「そういえばこいつに彼女できたって聞いたことねえからもしかして男が好きなのかもと思って試してみたんだけどほんとにマジで?」
「……直接聞けばいいじゃないですか」
「自分から話してくれないのが寂しくてさぁナツメがそういう奴だってのはわかってたけど俺はちゃんと嫁さんのこと話していいって言われてからすぐ電話したのにさぁ」
不覚だ。完全に失敗した。そのあとの対処も、たぶん間違ったことに今気がづいた。まだ誤魔化せるタイミングがあったのに!
思わず電話を持っていない方の手で頭を掴んだ。バカだ、どうして俺は夏芽さんみたいに頭の回転が速くないんだろう。あの返しじゃ完全に認めてしまったことになる。髪の毛が何本か指に引っかかって抜けた。
作品名:この声が届くまで 続この心が声になるなら 作家名:なつきすい