この声が届くまで 続この心が声になるなら
この際電気代のことは考えないことにしてこの夏一番にがんがんにエアコンを効かせた部屋の中、夏芽さんは足をきちんと揃えて、姿勢を正して台本を読んでいた。
結局夏芽さんの家で壊れたのは寝室のエアコンと、炊飯器と、HDDレコーダーの三点だった。ほかにもあるかもしれないけど、よく使うものでスイッチが入らなかったのはこのみっつだ。冷蔵庫とその中身が無事だったことに夏芽さんは本気でほっとしたようで、大きく息を吐いていた。寝室以外のエアコンは大丈夫だから居間にいれば涼むことはできるけれど、弱っているこのひとをソファで寝かせたくなんかなくて、俺の部屋に連れてきた。連絡した不動産屋さんによると、夏芽さんのスケジュールとの兼ね合いで、エアコンを交換できるのは最速でも明々後日になるらしい。
このひとは趣味の本はベッドで寝っ転がって読むのが好きで、しかも読んでいる途中で寝てしまうことがあるけれど、台本はたとえベッドで読んでいるときでも、必ず背を起こす。もっと氷を足すために冷凍庫を開けがてら、隣の戸棚から実家から送ってもらったもろこしを出して、さっきコンビニで買った塩タブレットと一緒にお盆に載せた。
この沈黙は、つらくない。時々、夏芽さんは台詞の加減を確かめるように、同じ台詞を何度も何度も調子を変えて音にして、しばらく黙りこんだりしている。目は台本に寄せられたまま、左手がお盆に伸びる。みるみるうちに山のように積み上げたはずのお菓子が夏芽さんの口の中へ消えていく。たぶんきっと、この姿は、夏芽さんも気づいていない、俺だけが知っているかもしれない夏芽さんのくせだ。お茶の用意をすると、俺も即席ソファの下に腰をおろして、明日の台本を開いた。ちゃんと、振り仮名が振ってある。ふつうのひとより時間はかかるけれど、自分だけでも読める。
夏芽さんのおかげだった。初めて会ったアフレコの後、俺を家に連れてきてご飯を食べさせてくれながら、自分は福祉とか障害のことはちっともわからないけど、と前置きした上で、仕事に関わる人には、少なくともこの人はそのせいで嫌がらせをしたりはしないだろうと思える人には、俺の障害のことを伝えたほうが良いと言ってくれた。公表する必要がなくても、どうしたって台本を読んだりする仕事なのだから、いつまででも隠し通せるものではない、本当にこの仕事をしていきたいのなら、そのことを教えないと仕事の幅も狭まるし、自分にも他の人にも迷惑をかけるよ、と。東京に来て、仕事を始めて、初めて心の底からこのひとは大丈夫だ、とたった一声で信じてしまったこの人の言葉を、俺は素直に受け入れた。
あのとき夏芽さんは、誰も信用しないで、自分の苦しいことや言いたいことを、たくさんたくさん、誰にも見せないで飲みこんでいたんだ。そんなことを、少しも気付かないまま。ただ、仕事にだけは誇りと自信を持っていて、だから仕事に関することははっきりと言えて、そんなひとの目に、あのときの俺はどんなふうに見えていたんだろう。
そんなことをぼんやり考えたせいで、一向に台本を読み進めることができない。台本読みはできなくはないけど、すべての集中力を結集してやっと読める、ぐらいのものだ。だから今でも、夏芽さんに一度読み聞かせてもらうことも多いし、マネージャーが読んでくれることもある。早くこのひとの隣に立てるようになりたいのに、どうしても、努力でどうにもならないことがある。
だけど、でも、それでも俺は――。
そんな思考を、けたたましい電子音が引き裂いて、思わず俺はびくっとなった。夏芽さんはあ、ごめん、と言って立ちあがって、しまった、と小さくつぶやいた。テレビの前に置いた鞄から携帯を探しながら、珍しくその顔には焦りが見えている。どうしたんですか、と尋ねると、トウヤと約束してたの忘れてた、あいつの結婚式の打ち合わせ、と早口で答えてくれた。
俺は、不機嫌を顔に出さないでいられただろうか。その言葉を聞く前から、着メロが鳴った時から。この音は、騒がしいところが殻神さんに似ている、という理由で、彼からの着信専用に設定されている。
「ごめん!」
電話を取るなり名乗りも確認もせずに、夏芽さんがそう叫んだ。熱中症で病院に行ってた、といえば誰だってすぐ許すだろうに、夏芽さんはそれをしない。でも受話器の向こうから聞こえる、おなじみのけたたましいしゃべりのトーンからして、怒ってはいないのだろう。俺と同じで、約束を連絡なしに破ることなどまずない夏芽さんを心配しているように俺には聞こえた。
だってたぶんこのひとにとっても、夏芽さんはすごく大事なひとだから。
夏芽さんにとっても、すごく、このひとが大事なように。
携帯を持った夏芽さんとその向こうの殻神さんは、今から行くよ、と、何か理由があるんだろいいよ電話で、と押し問答をしている。俺よりも付き合いの長い殻神さんは、必死で不調を隠そうとする夏芽さんの声から、どれだけ彼の不調を読みとっているだろうか。
みっともないな。最低に格好悪い俺が、この口から出てきそうになる。このひとは俺のことをおっとりしていて穏やかだ、と評してくれるけれど、たしかにおっとりというか、少しぼんやりしてる気はするけれど、ことを夏芽さんに関しての俺は、時々ものすごく心が狭い。
殻神さんは、夏芽さんの大事な友達で、たぶん、友達としてだけなら俺よりも大事なひとで。付き合いはじめた、あの奇跡としか思えない春の日に、帰ってきたら夏芽さんが大泣きしていたのを、俺はきっと死ぬまで忘れない。その前の晩に、俺はやっとこのひとの作り笑いじゃない笑顔と泣き顔を手に入れたと思ったのに、本人の前でないとはいえ、殻神さんは夏芽さんのこころをこんなにも動かすことができるのだと、その事実にひどく胸がざわついた。もちろん、夏芽さんが殻神さんを恋愛対象と思っていないのは知っているし、殻神さんだってそうだ。「トウヤとの約束だから」と教えてくれないけれど、彼にはちゃんと結婚を間近に控えた、夏芽さん曰く「びっくりするぐらい意外性満点でトウヤを尊敬してしまった」婚約者がいて、今日の会う約束だって、夏芽さんが友人代表挨拶を頼まれているからだということだってちゃんとわかっている。このひとにキスできるのも、抱きしめて一緒に眠ることができるのも、俺だけ。そう思っていても、悔しいものは悔しい。
殻神さんだけじゃない。湯上さんや優衣ちゃんも。夏芽さんが、大切に思っているひとたち全部に、俺はみっともなくやきもちを焼いている。
夏芽さんのことを、本当に大切に思っているひとたちはたくさんいる。そのことを夏芽さんにもちゃんとわかってもらいたいし、それで安心してほしい。夏芽さんが思ったままを口にしたところで、夏芽さんの考える「他の人の求める降森ナツメ」をやめてしまったって、そんなことで夏芽さんから、あのひとたちは離れていかないと知ってほしい。だけど、そうなったときに、もしも俺が、あのひとにとって特別じゃなくなっちゃったら。そんなことを考えると、怖くて怖くて仕方がない。
作品名:この声が届くまで 続この心が声になるなら 作家名:なつきすい