この声が届くまで 続この心が声になるなら
なにを言ったって、なにをしたって、全部夏芽さんなんだから。その言葉とかひとつひとつには怒ることもあるかもしれないけど、それは夏芽さん全部を否定するってことじゃないんだから。俺が夏芽さん自体をいらなくなるなんて、ありえないんだから。
ちゃんとかたちはあるのに、ここに確かにあるのに、この心は上手に声にならない。
心の中に溢れて渦を巻く、夏芽さんに渡したい思いを、全部、全部ちゃんとわかりやすい言葉にできたなら、この心が声になるなら、夏芽さんにこんな顔をさせないで、済むんだろうか。もっと、安心させてあげられるんだろうか。
「ごめんね、修吾君」
一瞬顔の動きが消えたあと、浮かんだ表情。その間の意味を、俺はたぶん知ってる。夏芽さんのほかには、俺だけが知っている。
「ごめんなさい、悲しい思いさせてごめんなさい、泣かせちゃってごめんなさい、もう君の嫌なことは言わないから、だから、」
「違います、夏芽さんが悪いんじゃないです! だか、だから、聞いて、夏芽さん。うまく、言えないけど」
その後に続く言葉を聞きたくなくて、予想がついて、俺は初めてこのひとの言葉を遮った。
「夏芽さんが、自分より仕事を大事にしてるのが、俺は悲しいです。でも、ね、それは、夏芽さんが嫌だからとか、悲しくなったから夏芽さんを嫌になるとか、そういうんじゃなくて、その、そういうところも、全部ひっくるめて夏芽さんだから、だから、謝らないで、俺が嫌かもしれないことも、言って。……でも、もっと、自分を大事にしてほしいんです。仕事を大事にするところは尊敬しています。だけど、夏芽さんが無理したりして、いなくなっちゃったら、きっと俺は………………俺も、死んじゃう」
そう言った途端、夏芽さんの表情がまた、消えた。違う、一見無表情に見える中に、かすかな驚きと、悲しみが見えた気がした。
「強く行っちゃったのは、怖がらせちゃってごめんなさい。でも、俺が悲しくなって怒っちゃったのは、夏芽さんがこんなときまでそういう無理しちゃうところで、その、夏芽さん自体に怒ったとか、怒ったり悲しくなったからって夏芽さんを嫌いになるとか、そういうんじゃないです」
逆だ。大好きだから、大切だから、このひとがこのひとを大事にしてくれないのが、悲しいんだ。
そう思わせてしまう自分の情けなさが、悲しいんだ。
「我慢したり隠したりしないで、俺が悲しいようなこととか怒るようなことでも、なんでも言って大丈夫です。俺はなにがあっても、喧嘩したって、本気で怒ることがあったって、絶対にあなたのことが、全部大好きです」
ただ、願うことは、ひとつ。
「だから、ちょっとずつでいいから、俺が好きなひとのこと、あなたも好きになってくれたら、嬉しいんです」
どうして、このひとはこんなに、自分のことが嫌いなんだろう。その原因なんて知らない。たぶんきっと、あんまり楽しい家じゃなかったんだろうな、ぐらいのことしか俺はまだ予想もできていない。お正月も、お盆も、今みたいにむちゃくちゃに忙しくなる前から、夏芽さんが実家に帰った話を聞いたことがない。元々こちらから聞かなければ自分のことはあまり話してくれない人だけれど、家族のことは、こちらから聞いてみても、ご両親はふたりとも札幌の大学に勤める学者だと教えてくれただけだ。どんな人か、と聞いても仕事のことだけだった。話したくないんだな、と思って、それ以上は聞いていない。
でも、夏芽さんが夏芽さんでいることを我慢しなきゃいけないぐらいの家って、どんなところなんだろう。想像もつかない。
夏芽さんはたぶん、本人が思っているよりずっと、素直で真っ正直なひとだ。演技はすごくうまいけれど、隠し事もするけれど、嘘をつかないひとだ。このひとが話してくれなかったことはたくさんあるけれど、嘘をつかれたことは、そんなにないと思う。そのことにちゃんと気づけたのは、やっぱり三年前に介抱させてもらった、あの夜からだけど。それから、少しでもこのひとの発するささやかなこころのあらわれを見逃さないように、ずっと、ずっと見てきた。聴いてきた。
「……頑張るよ」
ああもうどうしてこのひとは。
「がんばらなくていいんです。夏芽さんが自然にそう思えるように、俺が、がんばるから」
夏芽さんの手を握ったら、ほんの一瞬、小さく、ほんの少し、夏芽さんが顔をしかめた。骨や筋の浮き出た手の甲に刺さった針が見える。
「あ、ごめんなさい!」
ああもう、俺はどうしてこうちゃんとしてないんだろう。ついさっき、少し格好いいことを言えた、気がしたのに。
好きなひとの前では、一番格好いい俺でいたいのに。
好き過ぎて、大好きで、なにより大事にしたくて、夏芽さんといるときが一番優しい俺でいれる自信はあるけど、かっこつけたくて、夏芽さんに触りたくて、結果空回って残念な俺になってる、気もしてならない。
慌てて手を離した俺の手を、点滴の針の刺さっていないほうの手が追いかけてきて、俺よりやや低い夏芽さんの体温が触れた。
ただ、触れただけ。そのまま夏芽さんの手は、するりとベッドに落ちる。
夏芽さんの、度の強い眼鏡でほんの少し印象の変わる黒い目が、こっちに向けられている。
どうしよう、どうすればいい?
どうすれば、このひとは安心してくれる? 信じてくれる?
……俺だったら、もしも俺がこのひとの立場だったら、どうしてほしい?
夏芽さんは夏芽さんで、俺は俺だから、望んでることもしてほしいことも、違う。だけど、俺だったら、もしも俺が心細かったら。
その手を捕まえて、ぎゅっと握りしめる。夏芽さんの黒い目がほんの少し柔らかく緩んで、正解だったらしいことにほっとした。よかった、このひとは俺が触ることで、喜んでくれる。それが、どうしようもなくうれしい。
ただ、願ってほしい。ねだってほしい。そうは、思うけれど。
それでも、さっきみたいなやりとりのあとで、こんなささやかな甘えを見せてくれるようになっただけでも、少しでも、俺はこのひとに安心を与えられるようになってきているんだろうか。
……俺に、触りたいと、好きでいてほしいと、願ってくれているのだろうか。
抱き締めたい。キスしたい。抱きたい。火にかけて忘れた牛乳が突然ぶつぶつと沸騰し始めるときみたいに、こころの一番奥からぶわりと溢れた。
思わず両腕を伸ばしかけた、そのとき、廊下に溢れる足音がひとつ止まったのと、がちゃりと廻った音に慌てて踏みとどまる。夏芽さんはきょとんとした顔で、その黒目にほんの少しだけ、不安そうな色が滲む。気づいてないのか、ああ早く入ってくるならさっさと入ってきて入らないなら早く離れてお医者さんか看護師さん。
何に手間取ったのか少し時間があって、白衣姿の女性が入ってくる。なにかぱぱっと確認して、もう大丈夫ですねと言って針が痩せた手の甲から抜かれ、俺はやっとほっと一息つくことができた。
とりあえず予備の敷布団を畳んで座布団を積んでこしらえた即席のソファに夏芽さんを座らせて、このひとが好きだという黒豆茶を淹れる。熱いお茶の中に氷をがさがさ放り込むと、じゅっ、と溶ける音に続いて、きりん、とひびの入るレモン色の音がした。
作品名:この声が届くまで 続この心が声になるなら 作家名:なつきすい