この声が届くまで 続この心が声になるなら
こんなことになった原因は、たぶん昨日の雷のせいで、寝ている間に寝室のエアコンが壊れたことだった。仕事柄、喉を守るためにエアコンを使いたがらない夏芽さんは、寝る前に寝付けるように少しだけ入れて部屋を冷やして二時間で切れるように設定し、朝暑くなり始める前ぐらいにエアコンがかかるようにタイマーをかけて寝ているけれど、たぶん冷え切る前にエアコンが壊れて、朝になってもかからないから部屋はどんどん暑くなった。普通ならこんなことになる前に暑さで目を覚ますはずが、ここのところ暑い日が続いていた上に連日のイベントやらなんやらですっかり疲れていた夏芽さんは、起きられないまま、どんどん熱中症になってしまったらしい。無意識に暑さから逃げ出そうとして、途中で力尽きたんじゃないかと、本人は言っていた。ベッドから這い出ようとした記憶もないけれど、なんだかアマゾン川のほとりに立っている夢を見たという。危うく熱帯雨林の三途の川を渡り掛けた夏芽さんは、いまはエアコンの効いた、それも看護師さんがたまたま夏芽さんに気づいて入れてくれた個室で、点滴を受けながら身体を休ませている。夏芽さんは今まで顔ばれしたことは一度もないそうで、今回も名前で気づかれていた。俺は気づかれなかった。でも実は、俺はもう三回ぐらい、街で顔ばれして話しかけられたことが、ある。平均身長の高い地元ですら目立つこのばかでかい背丈のせいだろう。一度俺でも名前を知っている有名な野球選手と間違われたこともあるけど、身長しか似ていないと野球に詳しい夏芽さんが珍しく大笑いしていたっけ。
それはともかく。あと少し発見が遅れていたら、脳にダメージが出てました、とかお医者さんに言われて、俺は心底ぞっとした。
もし、様子を見に行っていなかったら、俺はこのひとをなくしていたんだ。
もし、いつも電話をするのを日課にしていなかったら、もし夏芽さんが普段から電話に出ないことがよくあったら、もし、もし。そんなたくさんの、夏芽さんを助けられなかった「もしも」が浮かんで、もうエアコンなんかいらないほどに寒気がした。怖かった。
「ここにいていいの? バイトは?」
点滴を受けながら、だいぶ顔に生気の戻ってきた夏芽さんが聞く。
「恋人が熱中症で病院運ばれたから付き添いたい、って言ったらすぐオッケー出たから大丈夫です」
そう答えると、こいびと、と小さく呟いて、少ししてから夏芽さんのほっぺたに赤みが差した。
「あ、大丈夫です、名前は出してないです!」
報告したバイトのリーダーはリーダーで、勝手に彼女だと解釈してくれていたし。嘘をつくのは苦手だけど、多少の隠し事ならできる。五年間の長い長い、絶対かなわないと思ってた片想いの中で、俺が少し大人になった部分。
恋心だと知られてしまって、夏芽さんと近くにいれなくなるのは嫌だった。だけど、俺が誰より夏芽さんを大好きなことは、ちゃんと伝えたかった。
夏芽さんはああ、うん、と曖昧に呟いて、しばらく何かを考えているような顔で、ぼんやりと天井を見つめていた。なにを見ているんだろう、と思って天井を見ても、ただなんのためについているのかよくわからない穴がぽつぽつと空いている白い板があるだけだった。とりあえず数えてみる。三十個で飽きた。
「……こんなこと、前にもあったんですか?」
微妙な空気が少しつらくて、俺はそう聞いた。別に、夏芽さんは体の弱い人ではない。確かに半年ぐらい前にも一度倒れているけれど、それまでに病気らしい病気をしたという話も聞いたことがなければ、こんな綺麗で繊細な声に似合わず喉が丈夫で、今までに一度も声を嗄らしたことがないという。俺が知る限り、体調不良で仕事に穴を開けたのは、あれ一回だ。予想通り、夏芽さんはううん、と小さく否定する。
「ただ、暑いのは少し苦手だから、夏の間はちょっと疲れやすくなるかもしれないな」
「夏芽さん、北海道の人ですもんね」
言うと、小さく頷いた。
「向こうだと普通は家にも学校にもクーラーなんてないんだよ。だからクーラーって贅沢品だとずっと思っていたんだけど……違ったね、内地だとあれは、命を守るのに必要なんだな」
妙にしみじみと言われた言葉に、こんな状況だというのになんだか面白くなってしまって、俺はちょっと笑った。夏芽さんは上体を起こしながら小さく首を傾げた後、さっき俺が買ってきたペットボトルへと手を伸ばした。血管の浮き出た、見慣れた手に細い管が固定されているのが目に入る。
また、沈黙。
まだ、慣れない。抱きしめるのも、キスをするのも、俺と比べたらずいぶん小さいこの身体を抱くのも、こんなにも身体と日常に馴染んできているのに。ふと、訪れてしまったこういう時間を、どうやり過ごせばいいのかが、まだわからない。
夏芽さんの喉が動く、ごくりごくりと音がする。流れていくのは、最近お気に入りらしい、はちみつ風味のスポーツドリンク。小さく口を開いて、ふは、と息を吐いた。
それから、ふと、僕はオフで本当に良かった、と口にした。
「え、なんでです?」
むしろ、せっかくの貴重なお休みを、こんなところで、点滴を打たれて、と思うのに。けれど夏芽さんは少し目を伏せ気味に、小さく笑って答えた。
「仕事がある日に倒れたりしたら、また迷惑をかけるところだったよ。今日で良かった」
こんなことで迷惑をかけられないのに、と、言う声はまだ少し弱々しくて。つらそうで。
ちゃんとした思考、が、吹っ飛ぶ。
こんなに、俺から見てもわかるくらい、弱ってるのに。こんなに、誰が見てもわかるぐらい、頑張ってるのに。
なんで、わからないんだろう。
どうして、わからせてあげられないんだろう。
「いいかげんにしろよ」
俺も、あなたも。
唸るような声が出てしまって、夏芽さんがびくりと身体を震わせて、首をこちらに向ける。眼鏡が蛍光灯の白い光を反射していて、目が合わない、だけど、わかる。夏芽さんがこちらを見ている。分厚い眼鏡越しでも、表情を消してしまっていてもわかる。短く切れる呼吸。
俺に、拒絶されたんじゃないかって、恐怖。
「あ、その、えっと……いや、でも、き、聞いてください」
怖がらせたいわけでも、驚かせたいわけでもない。自分として話すことを、つまりはきっと、自分が言ったことで誰かが悲しんだり怒ったりするのをなにより怖がるこの人の言うことを、否定したくなんてない。夏芽さんがなにを望んでもなにを感じてもなにを言ってもしても、許されるんだって言い続けたい、でも、それでも、言わずにはいられなかった。
それでも、できるだけ、このひとを責めない言葉を探して、探して、
「無理して、夏芽さんが、夏芽さんがいなくなっちゃったら、俺は、おれ、は、」
息が、詰まる。思い出す。あのとき、あのひとが語ってくれた言葉を。五年間、ずっと見つめ続けてきた、聴き続けてきたあのひとを。
お願いだから、誰かに迷惑かけることとか、仕事に穴を開けちゃうこととか、そんなことばかり怖がって、そうならない自分であり続けることを、ただ夏芽さんが生きることよりも大事にしないで。
そんなことしなくたって、夏芽さんが夏芽さんであるだけで、大切で大切でたまらない奴が、ここにいるんだって、わかって。
作品名:この声が届くまで 続この心が声になるなら 作家名:なつきすい