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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この声が届くまで 続この心が声になるなら

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 まだ、あなたが油断してくれるような相手にはなれていませんか、と。
 誰かに助けを求めない夏芽さんが、もしもひとりで、誰にも気付かれないまま、息をするのをやめてしまったら。そう思うとものすごく怖かった。まだ俺は、あのひとが安心しきって笑う声を聴いていないのに。俺が、俺だけが、そのことをこの人の口から教えてもらっているのに。だから今、電話ひとつ通じないだけでも心臓がいつもと違うリズムと音で鳴っている。昨日の夜の酷い大雨のせいで、水たまりだらけになった道を走る。うっかり片足を突っ込んでしまったらしくてスニーカーの布部分がべちゃべちゃと足にまとわりついてくるけれど、とにかく今は早く、早く夏芽さんの家につきたかった。会って、声を聞いて、確かめたかった。
 付き合い始めてすぐに、ねだってみたら、ふわふわの白い犬のマスコットがついたキーホルダーと一緒に渡してくれた合い鍵を使って、一階にある夏芽さんの部屋のドアを開ける。高いところが好きじゃないのはなんとなく気付いていたけれど、三階以上の部屋には住めないほど苦手だというのは最近教えてもらったことだった。
 がちゃり、と金属のひんやりした音がする。賊が侵入して……とかいう、電車の中で頭をぐるぐると回り続けた怖い想像のうちのひとつは否定されてほっとする。ああいやでも、ドラマでよくある密室なんちゃら、とかだったら!
「夏芽さん……?」
 近所迷惑にならないように、少しだけドアを開けて、その向こう側にだけ響くように呼び掛ける。返事はない。物音もしない。音が、足りない。
 もう一回、同じように呼びかけながら、ドアを全開にすると。
「あれ?」
 この時期だったら部屋の内側から、ぶわっと吹き出してくるはずの冷気がない。むしろ、外よりも暑い、ような気がする。エアコンの音がしない。もしかしてもう出かけたのかなと思うけれど、今日はあのひとはオフのはずだ。食べ物と仕事関係以外のことでは実は出不精な夏芽さんがこんな時間帯から、しかも携帯も持たないで出かけるとはあまり思えないけれど、こんな暑さの中でエアコンを入れずにいるとも思えないし、あのひとの動く音が、なにひとつ聞こえない。それだけじゃない。なにかいつもならこの部屋にあるはずのいくつかの音が足りない。ただそれが何の音なのかがわからない。夏芽さんの家になにがあるのかを全部わかってるわけじゃないから。
 外よりも暑い玄関に入って、べちゃりと足に貼りつく靴を脱ぎ捨てた。むわんとした空気が、重たい。この家には玄関マットがないから俺の濡れた足のせいで床が汚れてしまったけど、あとで拭けばいい。いつもと違う色のべとべとした自分の足音がまとわりついてくる。
 廊下には、夏芽さんの姿はなかった。台所からは、製氷機から氷の落ちるごとんという痛そうな音だけが聞こえる。なにかが足りない。何度も泊まらせてもらった寝室のドアに手をかけたら変に滑って、ひどい手汗をかいてたことに気がついた。
 ドアを開けて、ひときわ暑い部屋の中で俺が見たのは、ベッドから上半身をずり落ちさせたまま、ぐったりとして動かない夏芽さんの姿だった。
 
 
 そのあとのことを、俺はよく覚えてない。
 たぶん頭の普段使わないようなところをフル回転させて、夏芽さんになにが起きたのかを理解して、助けようとしたんだと思う。倒れているのを見て本当に心臓が止まるかと思ったのと、すぐに苦しそうな息の音がして、それでも、生きててくれたことにほっとしたことだけは、覚えている。
 いざというときのために救急車の番号をアドレス帳に登録してもらっておいてよかった。そうしておけば音声指示でも救急車が呼べるよ、と言って、夏芽さんと同じ種類の新しいスマホに変えた時に、やっておいてくれたのだ。ただでさえ数字を読むのに時間がかかるのに、慌てているときに落ち着いて電話画面を呼び出して番号を押す、なんてできた気がしない。たぶん熱中症で、だったら冷やさなきゃいけないと考えたんだろう。気が付いたときには夏芽さんを風呂場に運び込んで、夏芽さんの名前を叫びながら、冷たいシャワーをその身体に浴びせていた。
 お願い、起きて、起きて。死んじゃったりしないで。夏芽さんがいないなんて、絶対、嫌だ。だってまだ、俺は夏芽さんを、幸せにできてない。
 呼びかけていると、かすかにまぶたが動いて、水音にかき消されそうなぐらいの小さな、だけど確かにうめき声が聞こえた。
 夏芽さん、と名前を呼ぶと、少しずつ、まぶたが持ち上がっていく。今日初めて見たこの人の黒い目は、まだ焦点が合っていない。
「夏芽さん、大丈夫? 俺のこと、わかる?」
 それでも、意識が戻りかけてるのに、ほんとうに、はっきり心臓の音が変わるぐらいほっとして、俺は泣きそうになった。
「……………………つめたい」
 小さく、小さく呟いて、力はないけど間違いなくあのおひさまみたいな色の声でそういえば最初はほとんどお湯と変わらないぐらいぬるかった水はすっかり冷たくなっていて、ごめんなさい、と言って切ろうとすると、わずかに首を横に振った。
「…………きもち、いい、から、止めないで、くれ」
 ぼんやりした目が、少しずつ、はっきりとしてくる。夏芽さんはものすごく目が悪いから、この距離だといつもでも、俺の顔がはっきり見えないらしい。だけど、ちゃんと、俺を見て、修吾君、と呼んでくれた。
 どうなってるの? そう言う声がひどく弱弱しくて、シャワーを床に置いて横から体を冷やすようにしながら、夏になってまた痩せてしまって骨っぽくなった手を掴んだ。
 「たぶん熱中症です。いま救急車来ますからね」
 答えると、ねっちゅうしょう、とゆっくり反芻して、それから、
「修吾君が呼び戻してくれたんだ……」と、なんだか怖い気がすることを、するっとつぶやいた。