陸《おか》の帆船《ふね》においでよ
お店はもうすぐ開店の時刻だが、とりたてて急ぐわけではない。
アカネは、総帆展帆を見てみることにして、制服の女性に言われたとおり、船の後ろに架かっている橋を渡って、反対側へ歩いていった。
――橋を渡ると、女性がいったとおり椅子を並べた広場があった。
広場は石造りになっていてわりと広い。日本丸の前には一段高いステージがあり、大きな字で〈日本丸メモリアルパーク〉と彫ってある。
どうやらこちらが正面になっているようだ。
後ろには〈横浜みなと博物館〉という、横浜港をテーマにした博物館もあるようで、その後ろは芝生の公園になっていて、海も見える。
すでに日本丸の前の広場には沢山の椅子が並べられ、お年寄や親子が帆が張られるのを待っていた。大きなレンズのカメラを抱えた人たちもたくさんいる。
アカネも端っこの椅子に座り、一緒に総帆展帆が開始されるのを待つことにした。
――しばらく待っていると、博物館の奥にある建物から、黄色い帽子と真っ白な作業服を着た人たちが何十人も出てきて陸と船をつなぐタラップを渡り、続々と帆船へ乗りこんでいく。全部で100人ぐらいはいるのではないだろうか?
白い作業服の人たちの性別や年齢はバラバラで、男女比はだいたい半分くらい。年齢も20代から70代くらいに見える人まで様々だ。
「船の帆を張るのに、こんなに沢山の人が必要なんだ……」
白い作業服の人たちは、船の上の倉庫のような所から順番に黄色いベルトを取り出して腰に巻き、4本あるマストの下にグループを作って集まった後、準備運動を始めた。
先ほど出会った女性も船の上にいる。彼女は白い作業服ではなく、先ほどと同じ茶色の制服を着ている。
「偉い人なのかな?」
アカネがそんなことを考えていると、白い作業服の人たちが船の上で整列を始める。いよいよ〈総帆展帆〉が始まるようだ。そして、その中に1人の少女が混じっていることに気付いた。
はじめは背の低い大人の女性かと思ったが、どうみてもその容姿は中学生か高校生ぐらいだ。
「何をするんだろう?」
自分と変わらな年の少女が、大人たちに混じっていることの違和感と、同年代の親近感から、アカネは自然とその少女の方に目を向ける。
もちろん展帆作業をすることは理解できるのだが、少女が大人達と同じ作業ができるとは思えず、なにをするのか疑問が湧いてくる。
――しかし、その疑問は〈展帆開始〉の号令が掛かると同時に驚きに変わった。 なんと、その少女が船の横からマストへと伸びている梯子のようなロープに取り付き、大人たちと一緒にマストの上の方へ登っていくのだ。
「!?」
アカネが驚きで言葉につまる間に、少女はマストをスルスルと登り、自分の担当らしい場所まで登り終わると、横の棒へと渡って、棒の端の方まで移動していく。
「す、すごい……」
どう見ても少女がいる場所は船の水面から20~30mぐらいはある気がする。それに、横棒の足場はロープが1本あるだけで、少女が足を掛けて移動するたびに頼りなくふらふらと揺れている。その下には、デパートなどにあるような安全対策のネットなど一切なく、もし落ちれは船の|甲板《かんぱん》まで一直線に落下するはずだ。
そこは、アカネだったら足が震えて動けなくなりそうな場所だった。それ以前に、あんな高さまで登ることができないだろう。
「――怖くないのかな……」
自分が登っているわけでもないのに、アカネはドキドキしながらマストの上の少女の作業を見守った。
しかし、少女は恐怖など微塵も感じていないようにテキパキと動き、他の人たちと一緒に帆を縛っているロープを解きはじめている。
「あんな高いところで作業するなんて、一体どんな気分なんだろう」
いつのまにか、アカネの驚きは憧れへと変わっていった。
あんな高いところで平然と作業をこなせるような強い心があれば、人間関係でウジウジするようなこともないんじゃないのか?
そんな単純なことではないと頭では解っているが、それでもアカネはそのようなことを強く思う。
――全ての帆を解き終わったらしく、白い作業服の人たちがマストから順番に降りてきて、最初の位置に整列しなおす。
先ほどの少女も一緒に降りてきて、何事もなかったかのようにその列に並んだ。
そして、次の号令が掛かると、それぞれのマストに整列した人たちは、また一斉に動き出した。
まず、船の先端にある三角の帆が開きだし、続いてマストとマストの間にある三角の帆が開きだす。
白い作業服の人たちが掛け声を掛けながらロープを引くと、クシャクシャだった帆はドンドン拡がっていき、ピンと張られて風をはらみはじめる。
さらに次の号令が掛かると、今度は全てのマストの人達が一斉にロープを引き始め、マストの下の方に付いている帆が順番に張られていく。
帆を張るためには、とても力がいるらしく、1本のロープを10人以上の人たちが掴み、綱引きのように引いている。
もちろん、少女も大人達に混じってロープを懸命に引いていた。
そのような作業を何度も繰り返し、最後にマストの一番下についているとても大きな帆が開かれると、日本丸は|停泊時《ていはくじ》から|帆走時《はんそうじ》へその姿を変えた。
帆走時の状態となった日本丸は、その真っ白な帆に風はらんで少しだけ船体を傾け、今にも動き出すような錯覚をアカネに与える。
それは、〈太平洋の白鳥〉と呼ばれていたことを納得させる美しさだった。
――全ての帆を張り終えて、白い作業服の人たちが、船のヘリに整列する。数人は船の先端にある棒状の部分にも立っている。先ほどの少女ももちろん並んでいた。
『左舷整列。登舷礼用意』
スピーカーから声が聞こえる。
ピピーっと長い笛が3回鳴った後、ピーーピッっと最後に短い笛がなると、作業服の人たちが一斉に敬礼する。観客たちの大きな拍手が広場に響く。
アカネも他の観客と一緒に拍手を送り続ける。その光景は、まさに今から港から出港する船のようだった。
気づけば展帆開始から、既に1時間が経っていた。
展帆作業が全て終わり、白い作業服の人達が船から降りてきて建物へと戻っていく。そのなかには先ほどの少女もいて、大人達と笑いながら歩いていた。
本当は少女と話をして色々聞いてみたかったが、恥ずかしがり屋のアカネが声を掛けられるわけもなく、そのまま少女を見送ることしかできなかなかった。
「やっぱりダメだなー」
アカネが、声を掛けられなかったことに、ちょっとだけ落ち込んでいると、先ほどの制服の女性も船から降りてきた。
途中、アカネがいることに気づいたようで、女性はこちらに向かって歩いてくる。
「どうだった?」
「と、とても凄かったです。あんな高い所に、みなさんあっという間に登って行って――。それに、帆を開いた帆船は、とても綺麗ですね。」
いつものアカネなら、初対面の人とこんなふうに話すことはできないのだが、展帆前に女性が気さくに話してくれたのと、総帆展帆を見た衝撃で多少興奮していたのか、今日に限っては普通に話すことができた。
「喜んでもらえて、よかったわ」
作品名:陸《おか》の帆船《ふね》においでよ 作家名:SORA