水の月
はじまり
人込みの中から、男が少女を両手に差し上げて、高い高いをした。
「ほうら、見えるかい、お嬢さん」
「うん!」
その隣で、恐縮したように、老婆が頭を下げた。
「どうもすみません」
男は少女を肩に乗せて、老婆に笑顔を向けた。
「なに、軽いもんだよ。それに、こんな豪華な花嫁行列はちょっと見られねえもんな」
「すごい、綺麗だよ、おばあちゃん」
少女はさらに首を伸ばして、人混みの先を通る無蓋馬車を目で追った。
「花嫁さんもお綺麗だが、花婿さんもそれに負けねえいい男っぷりのお方だからな、見なきゃ損だ」
さすがはエルドアの若様の行列だ、と男は言って、自分も目を向ける。
街道はまるでお祭りのような騒ぎだった。二人を祝福する人々の手によって、色とりどりの花が投げられる。
先触れが道を払い、その後ろを花とリボンで飾った四頭立ての馬車が、晴れやかに笑う新郎新婦を乗せて付いていく。エルドア家の紋章が刺繍された臙脂色のベルベットを鞍に垂らして、同じように花で飾られた騎馬が続き、最後は大きな籠をかかえた道化師が、そこから飴や焼き菓子を掴みだしては、左右に放り投げていった。
祝い菓子に群がる子ども達の歓声と、大人達の拍手や口笛が混じり合って、街に満ちている。それは馬車が屋敷の内に消えてしまっても続いていた。これから町中で無料で酒が振る舞われ、夜も眠ることなく宴は続く。
「さて、もういいかい? お嬢さん」
男はおとなしくかしこまっていた少女をすとんと下におろした。
「おっと、俺なんか悪いことしたかな?」
男がそう言って、困ったように頭をかいたのは、少女が大粒の涙を流しながらしゃくりあげていたからだった。男は少女の前にしゃがみ、うつむく少女の頭をなでた。
「ああ、お気になさらないでくださいな。きっとほこりが目に入ったんでしょう」
老婆は優しく少女の背を叩きながら、男にお辞儀をした。
「ルーシエル?」
老婆は手で顔をこすっている少女をうながして、この見ず知らずの親切な男に礼を言った。少女もまだ泣きながらではあったが、ぺこりと頭を下げる。
「あ、ありがとう、おじさん」
「いやいや、お役に立てたかな」
随分と綺麗な女の子だな。うちの娘と同じくらいの年かっこうだが、えらい違いだ。
そんなことを考えながら、男は苦笑を浮かべて、振り返りつつ歩き出した。
老婆はもう一度頭を下げて男を見送り、横で声を抑えながら泣いている少女の手を引いて、人込みから離れていった。
この時、ルーシエルは八つになったばかりだった。無邪気に花嫁さんを見たいとせがんでいた少女の面差しが、この日を境に急に大人びた理由を、母親代わりの老婆でも知ることはなかった。