金色の目
こんな状態の人間を放置しておくわけにはいかない。しかし、下手に人を呼べば、姿を見られてしまう。招待状はきちんと作ってあるものの、顔を覚えられてしまうのはまずい。今後の仕事に差し支えてしまう。
「・・・・・・」
伶の症状は明らかに異常だ。一般の医者の手には負えないかもしれない。華族ならば、特別なツテもありそうなものだが、彼らとてピンキリである。伶や男爵の人脈まで、調査に来た探偵が知っているはずもない。
「これも仕事、かな?」
彼は伶を両手で抱え上げると、まっすぐに外壁の外を目指した。助けを呼び、どさくさにまぎれて逃げるよりも、このまま人目につかずに去ってしまう方が、探偵的には楽な行動であるらしい。
「お邪魔しましたー」
音も立てずに、草木の茂った庭を抜ける。横目で閉ざされた正門を見つつ、勝手口のような古い木戸から、あっさりと屋敷を出てゆく。
人を抱えた男が、突然道端に姿を見せれば、そこに居合わせた人は当然驚くだろう。幸い木戸の先に人はいず、渓都は悠々と道を進み、とある路地へと入った。
「曽馬、いる?」
空に向かって語りかけているかのような、何もないところへの言葉に、反応が返ってくる。建物の上階の窓から、一人の男が顔を出した。
「何だ、ずいぶん早い・・・・・・何だそりゃ!?」
「こいつが今回のターゲット。倒れてたんで、拾った」
「って、おい」
あっさりと言いつつ、抱えた人物を上下に振る渓都に、曽馬と呼ばれた男は、慌てた様子を見せる。だが、すぐに自分の役目を思い出したのか、神妙な様子に戻り、兄の同僚である探偵を見下ろした。
「どうすんだ、それ」
「ちょっと普通じゃなかったから、茜んとこもってく。車、ある?」
「連れてくよ」
呆れたように呟き、曽馬は窓辺から姿を消す。程なく、階段を下りてくるとおぼしき音と共に、路地に一人の男が現れた。
「別に、俺一人でも行けるけど」
「病人がいるときに、方向音痴に任せられるかっ。いいからお前は俺について来い」
尊大な言い方をする曽馬に、不満気な顔を見せたが、腕の中に目を落とすとかすかに眉をひそめ、おとなしく後に従った。先ほどまでは、うたたねのように開閉していた瞳は、もはやすっかり閉じてしまっている。呼吸も荒い。
「急ぐぞ」
伶の様子は曽馬にも緊迫感を与えたようで、三人が車内に入ったとたん、車は猛スピードで裏通りを走り出した。
ひどく痛む頭と体のだるさを感じながら、伶は意識を浮上させる。目は開いているのだが、すぐには焦点を結ばず、状態に耐えかねたかのように、再び閉じられてしまった。体があるということは、かろうじて解る。頭も正常に働いており、動けと命じるものの、腕は固められたかのように重く、自由にはならなかった。
(何、だ)
自分が自分ではなくなってしまったような感覚と共に、ひどいめまいが生じている。混乱した心を整えるため、どうしてこんなことになったのかを、思い返してみることにした。
(確か、男爵の遊園会に行き、気分が悪くなって・・・・・・一休みしていたら、貧民街の探偵? そうだ、あの男がいて、どうしてあんなところに? 男爵は、路上生活者を呼ぶような人物ではないし)
記憶を辿っていると、近くで物音がすることに気付く。目を向けると、今だ視界はおぼろげながら、先ほどよりは見えるようになってきていた。知覚することができたのは、人大の白いもの。白い服を着た人影のようだ。
「目が覚めたかい?」
柔らかい声が伶の耳を打つ。高くも低くもないその声は、性別の解りづらいものであったが、口調から女だろうという予想がついた。薄茶色の長い髪が視界に入ってきたことも、手伝っているかもしれない。
「――」
答えようと開いた口は、ただぱくぱくと開閉し、空気を送り出すのみ。非常に情けない姿だろうと自嘲すると、人影は笑ったらしく、体が揺れた。
「ああ、無理にしゃべらなくてもいいから。ちょっと聞いてておくれね。あんたは華族の遊園会で倒れたんだ。それは覚えてるかい?」
首を動かすだけで肯定を返す。上から覗き込んでいた影は、わずかにほっとしたようなしぐさを見せた。
「ここは、私の診療所だよ。ちゃんと国に認められてるから、怪しいところじゃない。私は医者で、茜ってものさ。あんたは?」
「れ、い・・・・・・。陵宮、伶という」
今度は何とか声が出た。安堵しつつ瞬きを繰り返し、どうにか医者の姿を確認しようとする。名前からしても女性なのだろう。女医の存在は男に比べれば今だ少ないが、珍しいというほどでもない。これまでも目にする機会はあったが、自ら診療所を持っているという存在と出会ったのは初めてだ。どんな人物かと好奇心が生じる。
「おや、声が出たね、よかったこと。じゃ、ちょっと渓都を呼んでくるから、顔を見せてやりな」
「渓、都?」
耳慣れない名前に首をかしげる伶を、女医は不思議そうに見やった。返しかけていた踵を戻し、再び寝台に近付いてくる。
「あんたをここに連れてきた奴だよ。知り合いじゃないのかい?」
「貧民街の、探偵?」
「そこにも行くね。探偵でもある。金髪で小柄な、目つきの悪い男なんだけど、そいつのことでいいかい?」
伶は探偵の姿を思い起こす。金髪に鋭い目つき。体型はよく覚えていなかったが、そう大きくはなかった気がした。
「特徴は、合っている。俺を連れてきたのなら、おそらくその渓都が、貧民街の探偵だろう。私も、話がしたい」
「解った。連れてくるから、寝てなさいね」
「ああ」
いたずら坊主を叱るような女医の口調に、思わず笑みを洩らしながら返事を返す。彼女が出て行ってしまうと、伶は一つ息をつき、見慣れぬ天井を眺めた。視界はずいぶんはっきりしてきており、今はもう元と大差がない。
部屋には寝台、窓、イス、小さな棚などがある。あまり広い部屋ではないが、清潔感があった。消毒液のにおいがするのは、施設の使用目的上仕方がない。居心地は悪くなかった。
(医者にかかるなど、久しぶりだな)
上流階級の出身で、飢えも乾きも経験せず健やかに育った伶は、あまり病気と縁がない。子供の頃からおとなしい性格であったため、無茶をしでかしたこともなく、怪我も数えるほどしか覚えがなかった。最後に自宅以外の寝台に横たわったのは、学生時代のことだったように思う。
(まあ、病を得ないのはいいことだ。ん?)
自問自答を繰り返した思考が、ふと止まった。体までも固まらせ、思いついたことをじっくり考え直してみる。なぜ自分は今、弱っているのだろう、と。男爵家の庭で意識を失う以前へ思いをはせようとしたが、至る前に、金髪の男と共に女医が戻ってきてしまった。
「あ、おはよー。俺のこと解る?」
男が片手を挙げつつ近付き、ひょいと伶の寝台を覗き込んでくる。
「お前の家とか知らなかったから、とりあえずここに連れてきたけど、平気だった? 会場にお付の人とかいない?」
「いや、一人、で」
「めっずらしいわね渓都。あんたが他人の事情に配慮するなんて」