金色の目
出かけて行く伶の背に向かい、家臣たちは恭しく頭を下げている。その気配を背後に感じつつ門を出ると、外の道を進んでいった。
昨今の華族というものは、外出時に自らの足など使わない。たとえ歩いてゆける距離でも、車を使うのが常識的な振る舞いであった。その事実に照らし合わせてみると、常日頃から自らの足で家を出ている伶の行動は、眉をひそめられても仕方がない。だが彼に、やめる様子は見えなかった。
頬に風を感じながら、青年華族は苦い笑みを浮かべる。自ら、らしくないと思っていたのだ。
彼は、自他共に認める生真面目な性格で、融通が利かないとさえ言われている。常識を外れることなど、考えもつかないような男なのだ。にも関わらず今は、同格の華族はおろか、一般市民からも目を見張られるような行動をとっている。
男は本名を陵宮伶といい、華族の中では中の上ほどの家柄の出身者であった。先々代の意思により、政治からは遠ざかっているものの、文化活動に大きな力を持ち、一目置かれ続けている。伶本人も舞踏の名流を修めており、実力は玄人をうならせるほどのものであった。
そんな存在だからこそ、政治に関わらないとはいえ発言力の強さは無視できず、脅威を感じる者もいる。どこで誰に足元を掬われるかも解らないため、彼は心ならずも、目立つことを極力避けなければならなかった。
(やりたいことを波風立てずにやる、というのは大変だな)
そんな中、あえて常識を外れた行動をとるのは、自らの目的を果たすためなのである。ためらうことはないが、上流階級にあからさまな拒絶を見せるほどおろかでもない。あまり興味のない会合にも、今回のように出席することもしていた。
(まあ、嫌で仕方ないということもないしな。遊園会ならば、庭を見てみたくはある)
現金な思考に肩をすくめつつ、伶は足早に道を進む。向かう先は、彼のやりたいことをなすために必要ではあるが、あまりなじみのない場所でもあった。そこへ足を向けることは、得に罪にはならないものの、華族が徒歩で移動する以上に、誉められた行為ではない。彼は人目を避け、関係のないところを行ったり来たりしながら、裏路地へと進んでいった。
路地は薄暗い。表通りからは一変し、寂れた感の漂う景色の中で、こぎれいな伶の姿は浮いて見える。誰にも見咎められなかったことに安堵している青年が、それに気付いた様子はない。慣れた様子で道を進むと、すすけた建物の裏口で立ち止まり、壊れかけた木の戸を、慎重に数回叩く。
「誰だい?」
「紹介を受けた者だが。以前、生糸を買った男からだ」
しばし間を置いたのち、木戸は少しだけ開き、中の様子と年を経た女の姿を伶に見せた。彼女は外にいる男をちらりと見たのち、素早く辺りに視線を巡らすと、無造作に「入んな」と彼を室内に招く。
「お邪魔する」
「戸はちゃんと閉めてきてくれね」
入った伶を歓待するそぶりも見せず、先ほどまでいたと思われるイスに座った女は、年の頃なら四十前後。小柄だが、背筋はしゃんと伸びており、質ははやや荒いものの、センスのいい服装をしていた。貧民街と呼ばれているこの道の住人にしては、上流の部類に入るといっていいだろう。
「あんたのご用は? 前の奴みたいに、裏の商品って感じじゃないよね」
「お解かりになるか」
「まあね。こんな商売してると、いろんな奴に会う。人生経験もあんたの倍近いから、人とナリを見てれば、大抵のことは解るようにもなるってもんさ」
女は、傍らにあったやかんから茶器に湯を注ぐと、茶を淹れた。立ちっぱなしの伶をあごで示して座らせ、茶を差し出す。彼は礼を言って受け取り、浅くイスへと腰掛けた。
「あんたは物欲にかられたわけでも、気まぐれでここへ来たわけでもなさそうだ。けどね、真剣ならいいってモンじゃない。この店に関わったからには、ちゃんと責任を全うしてもらわないとね」
「――あなた方、この路地で暮す人々に、迷惑をかけるつもりはない」
「ま、そう願いたいもんだね」
両手で茶器を持ち、宣言するように言う若者に、女は軽く笑ったのち、再度用件を尋ねる。二人が売り手と買い手という関係である以上、その話をしなければ先に進まないのだ。
「実は、情報を欲している。この辺りに最近、自衛団と称する集団が出没するだろう。彼らについて知りたい」
「ああ、あいつらね。でも、あいつらについてだったら、あんたら偉い人のほうが、詳しいんじゃないかい?」
「――」
「情報が欲しいんなら、まずそっちの手札を出しな。時間がもったいないじゃないのさ」
眉をひそめる女に対し、伶は少々たじろいだように見えたが、すぐに姿勢を正し、まっすぐに相手を見据える。
「私が知っているのは、あの自警団の背後に、華族以上の者が関わっているということと、目的がこの辺りの住人に対する抑圧だということくらいだ。何をしようとしているのかまでは、解らんがな」
「ふうん」
女は興味なさそうなため息をつきながらも、目を面白そうに輝かせていた。
「知りたいのは、自衛団が何をしているのか、あるいは何をしようとしているのか、ということだ。それさえ解れば、後はこちらのこととなる」
「私らには関わりがない、ってことかい?」
「そうだ。華族と関わることが、貧民街に恩恵をもたらすとは思えんからな」
女は軽く笑みを浮かべる。呟くように、そんな場合もあるだろうね、と言い、茶器を一旦テーブルへと戻した。青年華族はそれを目で追う。
「ま、いいだろう。あいつらのことは気になってたから、教えてやってもいい。だが今は、あんたが知ってる以上のことは、伝えられないね。また来るといい」
「――解った」
少々落胆したような様子を見せつつも、それほど期待はしていなかったためか、男はあっさりと引き下がる。さりげなく懐を探ると、小さな布袋を取り出し、女の前に置いた。
「もうひとつ。これは依頼ではなく、もし知っていたらで構わないのだが、教えてもらいたいことがある」
袋を取るようしぐさで促しつつ、口にした頼みはごく簡単なことで、女はあっさりとその答えを返すことができた。伶はそれに満足するでも落胆するでもなく、ただ静かに受け入れると、頭を下げて席を立つ。
「もういいのかい? じゃ、これは前金ってことで貰っとくよ。何かあれば、知らせよう」
「よろしくお願いする」
本格的に場を辞そうとする青年の耳に、独り言のようでいて、彼に向けられているとしか思えない言葉が、届いてきた。
「人探ししてんなら、私より探偵にでも頼んだ方がいいね。うちの得意さんにもいるから、私の名をだしゃ、話くらいは聞くだろう」
一瞬、戸口の前で立ち止まった人影は、あえて去り際に告げられた言葉を、問い返すことはしなかった。狭い部屋を抜け、入ってきた時と同様にそっと戸を開いて出てゆく。
「・・・・・・全く、物解りのいい坊ちゃんだこと」
女の呟きは果たして届いたのかどうか。彼は帰り道で金髪の男に出会い、探偵事務所の名刺を受け取ることとなるのである。