金色の目
「貴方がいてくだされば、それでいいんですわ」
白い手が、思いがけず強い力で手首をつかんだ。逃がすまいとでも言うように、黒い瞳がぎらぎらと見上げてくる。大の男が、怯むほどの気迫だ。
「学生時代から、存じ上げておりました。貴方にはあの町も、華族の社交界も、似合いませんわ。ここで私とずっと、一緒に暮らしましょう。後のことは、おじ様に全て任せればよろしいのですわ」
「月菜どの、ですから」
「それが一番いいのです。私は何も間違ったことは、言っておりません」
ここまで来て、さすがに渓都らもおかしな雰囲気を感じ始めたようである。困惑の表情で、互いに視線を交し合う。
一方伶は、月菜をなだめようと必死であった。書庫で見つけた、血族の特異気質が目の前の女性に表れているとすれば、どんなことを始めるのか、見当もつかない。
かの家には世代に一人、必ず心を病むものが現れていたのだ。原因は書かれていないが、古い血をより濃く受け継いだ者に発症は多く、世代によっては二、三人存在したこともあったらしい。
月菜は見た目こそごく普通で、日常生活も問題なくこなすことが出来ている。だが、この家で共に暮すようになってから、おかしさが顕著になっていることに、伶は気づいていた。書庫に閉じこもり、人の話をはぐらかし、深く考える様子もなく、犯罪に手を貸している。
それだけならばまだ、性格として片付けることも出来たろう。しかし今はどう見ても、言動がおかしかった。話を聞かず、わがままを言う子供そのものである。しまいにはスカートの生地をぐしゃぐしゃに握りしめ、地団太を踏み始めそうな気さえした。
この場にいる誰もが、理由はそれぞれ違うものの、彼女を落ち着かせる必要性を感じ始めている。対立していた藤綱でさえ、じりじりと体を浮かし、様子を窺っていた。
つかまれた伶の手首は、ますます締め付けられる。痛みよりも血が通わなくなり、指先が白く冷たくなっていった。背後の樹里にも解ったのだろう。進み出ると、二人を繋ぐ手を離そうとした。
「ちょっとあんた、いい加減に」
「触らないでっ」
突然大声をあげて樹里を振り払うと、月菜は伶を引き寄せる。頭一つ分彼女より大きな体がよろめき、簡単に抱き込まれてしまった。払われた樹里はといえば、驚きに少々目を見張ったものの、すぐに勝気に眉根を寄せる。
「何だよその態度。伶は嫌がってるじゃないか」
「邪魔をしないで、汚らわしい貧民の分際で!」
瞬間、空気が凍りつく。頭が空っぽになったかのような錯覚を、伶は感じた。反論しようと動く力はあるものの、すぐには働かず、ただ舌をもつれさせるばかりだ。
「な、何を・・・・・・」
「そうなのね、貴方はこの人々の汚らわしい空気に、染まってしまったんだわ。それならば、ここで清めていけばいいのよ。大丈夫、私がついているわ」
口調までも替わっている月菜に、華族の二人は危うさを感じ、動きを止める。だが、彼女に『汚らわしい』と評された探偵社の面々は、揃って呆れた表情を見交わし合ったのみで、それぞれに行動を開始していた。
「あー、そのさ、とりあえずあんたの言いたいことは解ったから。ちょっと落ち着いて、伶の言い分も聞きなよ」
「聞くまでもないわ、伶様にふさわしいのは、この場所と私。あなたのような女ではないの」
「あの、月」
言いかけた伶を遮ったのは、対話をしていた樹里の視線であった。彼は軽い困惑を覚える。何かしようとしているらしいのだが・・・・・・。
「何、それは嫉妬ってこと? ふさわしいかどうかなんて、所詮あんたの主観じゃない。本人同士の気持ちが合っていなければ、そんなの風前の灯だよ」
「下賎の民の発想ね。なじんだ場所にこそ、気持ちが向くものなのよ」
「それはつまり、あんたは自分自身だけじゃ、伶を繋ぎとめられないってことじゃないか。それに、伶がなじむ場所は、上流階級だけじゃないよ。こいつはどこにいたって何をしたって、こいつでいられる。どこででも輝けるんだ。私は知ってる、ずっと見てたからね」
「そんなの、私だって同じよ! 学生時代からずっと思ってた。あなたよりももっと長い間っ」
「長さで競うもんじゃないだろ、こういうのは」
複数の意味で、二人の女性の間に挟まれる形となった伶は、非常に居心地の悪い思いを味わっていた。自分のことで言い争われているにも関わらず、口を挟めない。片方は建前と解っていても、落ち着くことが出来なかった。助けを求めようと男たちを窺うと、二人は共に静かに場所を移動している。和馬は藤綱、渓都は伶の方へと。
金の瞳が静かに、と告げている。何を言ったところで、らちがあかない予感がした。手首の痛みに耐えながら、動かずに渓都の出方を見ることにする。
その時ふと、伶は肌に触れるものへの違和感に気付いた。自らの意思ではないにしろ、今彼は月菜と触れ合っている。彼女の胴体の辺りに、なにやら冷たい感触が存在していた。
興奮している月菜は、伶へ意識を向けていない。身をよじり、冷たさの源に目を向けると、銀の輝きが写り込んできた。鋭く危険な刃の色。伶をつかんでいない手が、そちらに向かって伸ばされる。とっさに彼は叫んでいた。
「だめだ、月菜どの!」
瞬間、人々が動き出す。
渓都は、素手で刃物をつかんだ伶を、月菜から引き離した。樹里は彼女に飛び掛って、床に押さえつける。
「兄貴!」
「おうよ。ちょうどいいもんがあるわ。あんた、予想してたな?」
藤綱の肩をがっちりとつかんだ和馬が、机の引き出しから取り出した縄を、樹里へと放った。彼女はそれを受け止め、体全体で月菜を押さえつけながら、手早く後ろ手に縛り上げる。暴れ叫ぶ女性の動きを、完全に封じた。
「大丈夫?」
「えっ。あ、ああ」
甲高い声が響く中、渓都に声をかけられ、初めて刃を握った手に、血が流れていることに思い至る。そっと刃を取り上げられ、まじまじと傷を覗き込まれた。
「あんま深くはないみたいだね。放っときゃ治るけど、血の跡つけるとまずいから、止血しとく」
「あ、すまん、自分で・・・・・・」
「片手で出来るの?」
呆れたように言い、その辺りにあった布で手を覆う。血のついた刃は証拠とするためか、慎重に自らのハンカチで包んだ。
自分の家の品物を勝手に使われた藤綱は、しかし月菜に向かいうなだれるのみ。咎める様子はない。伶はそんな男に、静かに言葉をかけていた。
「私を留めていたのは、月菜どののためでもあったのでしょう? 彼女の相手ができる人材を、欲していたのですね」
答えが返ってくることはなかったが、否定の様子もまたない。部屋に響いていた月菜の叫び声も、疲れのためかだんだんと小さくなってゆく。
ほどなく樹里は、ゆっくりと体の力を抜いた。
数日後。
表向きは平穏なまま、探偵事務所の時は過ぎている。誘拐事件の個人的な後始末やら、滞っていた仕事やらで、後援者はあれこれと忙しいらしく、全く連絡が取れていない。特に話があるわけでもないし、と渓都がうそぶくと、和馬が事後報告をしろ、と怒鳴りつける。あちらのほうが事情は詳しいだろうと思うのだが、だったら情報交換して来い、とくるのだ。