金色の目
「雪がね、ありがとうって。楽しんだみたいだよ音楽会。はっきりとは言わないけど、また行きたいって思ったみたい」
「ああ、先日のことか。喜んでくれてよかった。気に入ったのならば、また席を融通しよう。さすがに毎回無料とは行かないが、割引ならば出来るから」
「ん、どうも」
明るく答える様子を見て、嬉しそうだなぁ、と渓都は思う。よほど子供が好きなのだろうか。それとも自分がしたことを評価されて、喜んでいるのか。どちらにしろ、子供っぽい感情だ。しかし、彼が後援者を見下すことはない。
基本的に人に感心がない彼には、珍しい心の動きと行動だ。本人はそのことに、いまひとつ気が付いていない。ただ、伶とこんな風に何気ない話をすることが、嫌いではないという自覚はあった。
「出来たら、家出娘の件もよろしくね。俺も弟探し、がんばるから」
「ああ、気長に待っているぞ」
珍しく飛び出した青年華族の冗談に、二人は顔を見合わせる。間を置いて、少しだけ笑い合った。
服を着替え髪をくくりなおし、いつもの格好に戻った伶は、まず手紙をしたため始める。先ほど帰した渓都には、あれやこれやと言ったものの、すでに話しながらある程度の気持ちは固めていたのだ。
手紙は、自身の師匠へ宛てたものである。彼には一人娘がおり、幼い頃は家にお邪魔するたびに、いじめられた苦い思い出があった。成長とともに会う機会が減ったため、記憶が痛みには繋がることはない。
舞の稽古には最近も赴いていたが、師から彼女の話が出ることはなく、どうしているのだろうかとは思っていた。ある時同門の生徒から、お嬢様は駆け落ちをしたらしい、と噂を耳にするまでは。
当時は、それ以上の関心を持たなかったのだが、仮にも幼馴染のこと。気にかかってはいたようで、渓都の話を聞いてまず浮かんだのは、彼女の存在であった。
なにぶんいくらか前のことである。まずは確認をしてみなければならない。ここの所ご無沙汰していたこともあり、師匠に会ってみようと考えていた。娘のことは匂わせず、単にご機嫌伺いをしたい、という文章をしたため、封をする。
「さてと」
投函しようと席を立ったが、ふと思い立って屋敷内に向けた呼び鈴を鳴らす。お使いくらいはやらせてください、私達の仕事がなくなってしまいます、と召使いがこぼしていたことを思い出したのだ。ほどなく、音を聞きつけた年若い召使いが現れる。
「これを出しておいてくれ。ついでで構わないが、出来れば今日中にな」
「かしこまりました」
礼儀正しく頭を下げ、去ってゆく召使いは、ほのかに顔を赤らめているが、伶は気付かない。程なく手紙の投函を巡り、仲間内で争いが起きたが、そういったことに全く思いが及ばないところが、伶の伶であるゆえんである。
書き物机に戻り、手紙や書類に目を通していると、侍女頭が入室を求めてきた。扉の叩き方や声だけで解るほど、付き合いの長い女召使いである。立ち上がるどころか振り返りもせず、伶は彼女を迎えた。
「失礼いたします。今、若い者が騒いでおりましたよ。伶様に仕事をいただいた、と」
「そんなに仕事がなかったのか? 人が多すぎるのだろうか」
書き物をやめて、頬杖をつき思いをはせていると、背後からため息が漏れ出でてくる。何事かと振り返ると、彼女は困ったような苦笑いを浮かべていた。
「仕事はございます。ただ、伶様から言い渡されるのは、珍しいということですよ。もう少し私どもを使ってくださいませ。張り合いがなくなってしまいます」
「と、言われていたから、今日は頼んだのだが・・・・・・。これ以上、どうしろと言われても困るぞ。俺は今でも十分すぎるほど世話になっているのだから」
「私どもは、あなたのお世話をするために、この家にいるのです。いい加減に気を使うのはおやめくださいませ。今の主はあなたなのですよ」
「・・・・・・ああ」
政界から身を引いたことで「自分のことは自分で」という意識が芽生えたのか、彼は自立心を育む教育を受けた。気を使っているつもりはないようなのだが、他の華族と比べると、ずいぶん態度が控えめなのである。教育の成果といえば、言えるかもしれない。
気のない返事に、侍女頭はため息をついてみせたが、すぐに何かを思い出したかのように、顔をほころばせる。
「そういえば先ほどの客人も、見目麗しい方でしたね。若い者達が目を輝かせていましたよ。あれはあれで、刺激となります」
「そうか?」
「そうですとも。人の出入りは、家の活性化に繋がります。これからも、あのように若い方との交流が続いてくれると、ありがたいことですね。先日の平民の女性のように」
侍女頭の言葉に、伶は苦笑いを浮かべた。確かに、よい服を着て黙って立っていれば、渓都は気品のある男に見えないこともないだろう。騒ぐのは自由であるし、中身をわざわざ暴露する必要もない。ただ肩をすくめることで、答えに変える。
樹里のことには触れない主に、今度は侍女が苦笑いを見せた。主の思いに沿って、話を続ける。
「私も、少々懐かしくなりました。あの男性は、少し旦那様に似ておられますね」
「そうか?」
彼女の言う旦那様とは、伶の父のことだ。先代から仕えている者は、まだ独身の伶を旦那様とは呼ばない。子ども扱いされていると見る向きもあるが、言い分けるためだと無理やり理屈をつけ、黙認されている。
「父に似ているのか、あいつは」
呟いて、ひとつため息をつく。イスにもたれかかり、目をつぶって天を仰いだ。
自分の父親のことながら、他人事のような言い方だという自覚は、伶にもある。しかし、無理のないことなのだ。彼にはあまり、父の記憶がない。没したのは五年ほど前であるため、覚えていないということはないのだが、思い出は全ておぼろげなのである。
伶と父親は、同じ家に住みながら、顔を合わせる機会が少なかった。外に妾を作っていることがはっきりしてから、あまり家に戻らなくなったためだろう。母親は部屋にこもりがちとなり、子供を省みる余裕をなくした。寄宿舎のある学校へ入れられたのも、そんな息子を周りが見かねたためのようである。
思い起こすと、小さく笑みを浮かべた。学校生活はなかなかに楽しく、今も付き合いの続く友や、恩師に出会うことが出来た。後悔はない。しかし、今でも時折思うことがある。もし父が家にいたら、母が伶を気にかけたら、普通に男子校に通っていたら、どうなっていただろうかと。
天を仰いだままの主に、侍女頭はわずかに眉をひそめ、そっと言葉をかけた。
「思い出されますが、ご両親のことを」
「いや、あまりな。薄情かとは思うが、今はこれからを考えることで、精一杯だ」
「左様でございますか」
やや気の抜けた答えに、侍女頭の言葉も、力を失ったように部屋に落ちる。気にかかったのか、伶は目を開いて彼女を見た。
「何か、余計な事を考えさせてしまったかな。大丈夫。俺は俺、父は父だ。同じ轍を踏むとは限らんさ」
「以前から思っていたのですが、ひょっとして、伶様がご結婚に前向きでないのは、旦那様を見てらっしゃったためですか?」