金色の目
「いつ帰っていらしても、大丈夫なようにしているだけですから。前のお家では、いつ食事を申し付けられてもいいようにしておけ、と言われていましたので。それに比べれば、今は朝と夜だけですので、楽なんです。お気遣いいただかなくても、大丈夫ですので」
「そう? なら、これまで通りでいいかな」
「はい、そうしてください」
生真面目に答える雪の様子は、とても十三歳とは思えなかった。ただでさえこの年頃の子供は、親や大人に反抗的な時期である。にも関わらず、彼女が渓都に従順なのは、もちろん二人の間に結ばれた雇用関係のためだ。彼女は仕事につくには、少々早い年頃ではあるが。
「じゃあ、ご飯でいいかな。雪はもう食べた?」
「いえ、まだです」
「じゃ、今晩は一緒に食べようよ。たまに早く帰った時くらい、同席してもいいんじゃない」
笑いかけると、従う側である雪は戸惑ったような表情を見せる。大人の召使いであれば、きっぱりと断るなり何なり対応するのだろうが、少女はまだまだ親の恋しい年頃だ。しばし迷う様子を見せたものの、だめかなと主に一押しされると、おずおずと承諾する。渓都は、微笑ましいと言いたげな視線を、どこか嬉しそうに準備をし始める、幼い小間使いへと向けていた。
実は彼には家族がいない。家には今でこそ二人の住人がいるが、かつては一人で生活していたのである。物心ついた頃に母は亡くなり、離れて暮していた父は、この家を残したのみで、連絡がつかなくなっていた。
彼の両親は正式な夫婦ではなく、いわゆる愛人という関係であったらしい。父がどこの誰であるのかは、はっきりと解らないが、広い家を渡せるくらいの金持ちなのは確かだ。
家の維持にこそ金はかかるものの、すでに収入を得ており、さらに生活に贅沢さを求めない渓都に、困ることなど何もない。いざとなれば、家にあった貴重品を売ろうか、とも考えていたが、今のところその必要はなく、自らの収入のみで人一人を雇い、苦のない生活を続けていた。
「渓都さん、仕度ができました」
「あー、うん。今行くよ」
呼びかけてくる少女の声に従い、男は自室を出てゆく。人はあれこれと言うかもしれないが、とりあえず今の生活に満足している渓都は、のんびりとした日々を送っているのだった。
渓都らの暮らす帝都には、貧富さまざまな人種が存在している。今の政府は、政争を経て立ち上がり、表向きには身分制度の撤廃を宣言した。しかし金があり、権力もある一部の者達は、力を振りかざし、自身の権益を守ろうとするものである。政府の中にもそういった者は存在し、彼らにおもねり、力をつけようとする者達のために、平等思想の実現は難航した。
結局、平等は形の上での理想、という形で収まるにいたっている。
天子と呼ばれる皇族と、その配下である華族、彼らを守る士族。その三つの呼び名が残り、他はみな平民と呼ばれているのが現状だ。
平民とまとめられていても、渓都と雪のようにその立場に差があるように、高い地位の者達にも格差はある。皇族が頂点であることは、誰もが認める事実だ。以下の華士族には、基本的に優劣はないことになっている。単に、戦う士族と内向きの仕事をこなす華族、という役割分担がされているのみ、とされていた。
彼らの性質の違いから、渓都は伶を華族か皇族ではないか、と思ったのである。彼は、身ぎれいな格好をし、乱暴な口調でこそあったものの、物腰は丁寧だった。それは各個人の差はあれど、華族に共通する振舞いで、時に士族の反感を買っている。
彼らの諍いは、口を極めての口論、流血を伴う対立、皇居での腹の探り合い、下町でのケンカまで、さまざまな形をとって表現された。それに平民が巻き込まれることさえある。
渓都の探偵事務所にも、まれにそんな騒ぎから発生した依頼が、舞い込んでくることもあった。巻き込まれた一般市民や、高位の者とのつながりのある商人、そしてごくごく少数ではあるが、華士族本人が訪れることさえある。もちろん、数多くあるわけではない。大抵は、伴侶の素行調査やご近所問題など、地道に解決しなければならない依頼ばかりだ。
現在、事務所には小さな依頼もなく、職員は暇をもてあましている。渓都を筆頭に。
「ねぇ和馬、暇なんだけど」
街のざわめきが、室内まで届いてくる。明るい日差しが差し込む室内の、最も大きく質のいい机に、だらりと体を預け、渓都は目の前で忙しそうに働いている相棒に言った。
「そうか。あいにく俺は忙しいんだよ」
「えー、何をそんなにすることがあるのさー。依頼もないのに」
和馬と呼ばれた青年の動きが止まる。彼は堂々とした体躯とよく日に焼けた肌を持つ、見るからに肉体派の男であった。一方の渓都は、ひょろりとした体つきで、色も白く背も低い。しかし、いざ荒事となると二人の力量は変わらないのだから、世の中は不思議である。
和馬は相棒に向き直ると、呆れたようにため息をついた。
「あのよう、依頼はなくともやることはあんだろ。帳簿の整理とかな。お前も昨日、情報屋んとこ行って来たんだろ? それでもまとめとけよ、忘れっぽいんだから」
「昨日? ああ、あれか」
首をかしげてから手を打つ、というしぐさを見せた探偵に、和馬は呆れた表情を向ける。やっぱりな、とぼそりと呟いた。自分のしたことを、忘れかけていたらしい。
「思い出したんなら、やっとけよ」
「いいよ。昨日は、情報貰いに行ったんじゃないし。むしろ、こっちからあげに行ったんだよ。いつもありがとねって。最近あの辺、外の目が厳しいみたいだから、そのお見舞いもかねてね」
「ああ――」
呆れを前面に浮かべていた和馬の表情に、納得の色が広がってゆく。
「何か変わってたか? まだ大丈夫そうかよ」
「見た目は変わりないね。けど、みんな何かしら感じてるみたい。俺も、ちょっと変なのと会ったし」
「お、何だ」
机から身を乗り出した和馬は、これまでしていた作業を休むことにしたらしい。彼のしていたことが、渓都にも見える。どうやら事務所の収支報告を見ていたようだ。よくやるよなぁと、まるきり他人事な感想を持ったのち、彼は言葉を返す。
「追いかけられてる奴と会ったの――ってあ、行った帰りに、だからね」
念を押したのは、何かよくないことがあった、という誤解を招かないためだ。
彼らは探偵事務所を営むために、あちらこちらに情報源を持っている。知り合いの話好きな女であったり、古い友人であったりとさまざまだが、中にはそれを商品として扱う存在もあった。先ほど和馬が口にした「情報屋」という者達のことである。
彼らは決まった店など構えないため、見つけるのは一苦労だ。信頼できる情報屋との付き合いは、事務所の生命線である。そのために渓都は、特に用はなかったものの、よくない噂を耳にしたため様子を見に行った、というわけなのだ。和馬が彼らの去就を気にしているのも、同様の理由からである。
だが、今から口にしようとしている話には、今のところ不穏な空気はない。渓都の口調は普段通りにぼんやりしたものだった。
「その男、あの辺の貧民街の自衛団っていうの? 荒っぽそうな奴らに追われててさ。こぎれいな格好してたから、何か勘違いされたのかも。華族っぽかったし」