金色の目
「そう、私達夫婦よ。今だってそのために、あの人は話しに行ったのだから」
「え。それはどういうことです」
夫人はゆっくりと、夫の去った方向へ目をやった。誰もいないことを確かめたのちに、伶にささやきかける。
「夫が、あなたにしたことは知っているわよね」
「はあ」
青年華族はわずかに眉を寄せるが、夫人の真剣な表情に、話を聞き続けることとした。彼女の様子は、決して冗談を言う時のものではない。
「あの人は、あなたを殺そうとしたこともないし、毒を入手したこともないと言っていたわ。それは、信用してもいい。家の中でそんなものを隠していたら、いくらなんでも召使いに見つかって、噂にくらいなっていたでしょうから」
「つまり、伯爵とは別に、私に害意を持ち、命を狙う者を貴方がたは調べている、というわけですか?」
「ええ。罪滅ぼしみたいなものかしら」
夫人は困ったように伶を見上げる。彼女よりはるかに年下の青年華族は、顔に苦い笑みを浮かべてみせた。
「そこまでお気になさらずとも。私達は今こうして、良好な関係を保っているではありませんか。お手を煩わせずとも、平穏に夫婦生活を送っていただければ、それで」
「あなたに何かあれば、平穏とはいかないの。疑いが私達に向きかねないわ。言っては何だけれど、これは親切だけじゃない。自衛のためもあるのよ」
言い放った夫人だったが、実のところ毒を盛ったのが伯爵ではない、という言をあっさり信じてくれる伶にも、少々の不安を感じている。信じる、という言葉を疑っているわけではない。彼の自作自演の可能性もある、と思いついてしまっていたのだ。
無論、すぐにそんなことはありえない、と自分自身でその考えを否定する。
演技をする必要はないし、体力が落ちている状態で毒を摂取すれば、命にも関わった。理由があるにしても、自殺志願でもない限り、危険な者を自ら含んだりはしないだろう。
伯爵にも、何かしら思うところがあったようだ。妻に伶と話をさせているからには、きちんと確認して来い、と言っているのかもしれない。あからさまに口に出すことは、もちろんないが。
さまざまな思いをこめ、やや皮肉気に言った夫人に、伶はなるほど、という様子で頷いた。
「そうですね。それならば納得がゆきます。では、少々甘えさせていただくことにいたしましょう。ですが、どうぞご無理はなさらぬようお願いいたします。せっかく専門家もいるのですから、彼らにも頼ってください」
「渓都君のこと? そうね、そうさせてもらうことにする。でも、あっちも忙しいみたいだし、出来る限りのことは私達でしたいと思うの」
「出来る限り、とは?」
探偵事務所が忙しい、とはどういうことだろうかと、内心で首をかしげる。一応彼は、事務所の後援者であるのだ。気にはなるだろう。
だが、それを夫人に問い質したところで意味はない。ここでは、別に生じた疑問を投げかけてみることにしたようだ。
「今みたいに、あなたにちょっかいをかけてくる人を、調べているのよ。ああして話しかけてみたりしてね。人の集まりにもよく出かけるようになったし、私としては顔が広がって、一石二鳥だわ」
夫婦仲も宣伝できるしね、という夫人に伶は舌を巻く。
「したたか――いえ、前向きですね」
「それが私の長所だもの。あなたも少しは見習ったら? 周りに気を使ってばかりでは、あっという間に老け込んでしまうわよ」
「そう、ですね。見習うべき部分も、確かにあります」
立場的に、気使いを欠かすわけにはいかないのだが、そうした心がけは必要であろう、と肯定的に捕らえることにする。実際、目の前の人は隠し事をし、常に気を張っていた以前よりも、それを振り切った現在のほうが、明るく朗らかだ。明るくて困ることなど、日常ではまずない。
「あなたも渓都も朗らかですよね、本当に。私にはないものを持っている」
「あなたも、私にはないものを持っているわ。だからこうして、お互い一緒にいて楽しいのよ。得るものがあって、いいことじゃない」
「そうですね」
伶は夫人に笑いかけた。なるべく明るく、それでいて相手をどうしようという下心のない笑顔に、夫人も笑みを返す。
「調査、お気をつけてくださいね」
「自分のためにならないことはしないわ。あなたも注意してね」
「ええ」
程なく伯爵が戻って来たため、夫婦と伶はほんの少しぎこちないながらも、笑顔で別れのあいさつを交わした。
渓都はやや迷いつつ、陵宮の屋敷を訪ねていた。立派な玄関で呼び鈴を鳴らし、互いに顔を覚え始めた召使いに、用件を告げる。
「急で悪いんだけど、伶いるかな? ちょっと用があるんだけど」
よく訓練されたであろう召使いは、その態度に内心はどうであれ、嫌な顔ひとつせず、中へと通した。彼がここに来るのは初めてではないが、じっくりと見たことはない。案内される間、ものめずらしそうに辺り目をやっていた。
「こちらで、しばらくお待ちください」
「ん。伶はまだ寝てんの?」
女召使いに、首を傾げて問いかけると、ここで初めて彼女は笑みを見せる。
「いいえ。主は早起きですから、とっくに起きておられますよ。今は練習中なのです」
「練習。何の?」
「舞の、です」
どこか誇らしげに答える女に、渓都は目を瞬いた。
「舞? あいつ音楽やってんじゃないの?」
「ええ、音楽も舞もやっております。特に舞は、古くから家の伝統ですので。陵宮の舞は有名なのですよ。音楽は単に主の趣味です。と、」
しゃべりすぎたと感じたのだろう。女は口を押さえ、苦笑いしながら頭を下げると、お待ちくださいと言い残し、部屋を出てゆく。その姿を目で追いながら、探偵である青年は、ゆっくりと頭を働かせ始めた。
舞をしている家だったのか、とまず思う。再び、自身との共通点を見つけてしまったのだ。彼の家――つまり父の家なのだが――も、詳しくは知らないものの、舞の流派の家であるらしい。ここまで似てきてしまうと、もう少し自分のことを知っておけばよかったか、と思い始めていた。
相方の言った冗談(渓都が伶の弟であるというもの)が、冗談ではなくなりそうな気がしてしまう。
ありえない、と言い聞かせて目を閉じた。この家の規模は大きい。いくら興味がないとはいえ、情報を扱う仕事をしている探偵事務所に、少しも話が入ってこないということは、まずないであろう。
(だから、冷静にならないと。自分の都合で判断を狂わせてちゃ、危ないぞ)
渓都とて、自身のルーツを知りたくないわけではないのだ。色眼鏡を使ってしまいそうな己を、強く叱咤する。
頭を切り替えるため、伶のことを考えてみた。音楽といい今回の舞といい、つくづく優雅な趣味である。ただ、音楽は外国のものを取り入れているようだが、舞の方は国伝統のものらしい。その点に、少々の違和感が感じられた。
彼から見たこの家の主は、実に保守的である。政治に野心がないというのも、考えを裏付ける根拠だ。祖先のした選択を尊重しているのだろう。当時は先駆的なことだったかもしれないが、長く続いてゆけば充分に保守的といっていい。