金色の目
「おっと、そうかい。引き止めて悪かったね。でも、楽しい話が聞けたよ。ありがとう」
男は、立ち話のお礼と言って二束の花を買い、去ってゆく。少し時間を使ってしまったが、少女の気分はずいぶんと軽くなったのだった。
伶は困惑と疲労を感じながら、延々と話を続ける男相手に、にこやかな対応を繰り返していた。
時刻は昼。だがそろそろ日も傾き始めている。長時間立ち続けることも、姿勢を崩せない状況にも慣れてはいるが、初夏の季節であるがため、額に浮かぶ汗だけは、どうすることも出来ない。
なぜこのようなことになったのか。解っているようで、いまひとつ理解していなかった。舞人たちの集まりに、顔を出しに来ただけのはずである。その集まりとて、決まった役員の話し合い、という名目の下の懇談会のようなものなのだ。技術はあるものの年若い伶は、毎回ただ話を聞くのみの、気楽な立場だったのである。終了後、旧知の者と会話することを、主目的としていた。
本日は、実に運が悪いとしか言いようのない状況に陥っている。古参の役員に捉まってしまったのだ。立場も地位も年齢も、相手の男の方が上であるため、話仲間もうかつに助けに入れない。伶はもう数十分ほど男の話につき合わされていた。
「君の活躍の目覚ましさは、本当に誇らしいことだと思う。だがねぇ、君のお祖父様は政治から身を引いたんだ。そこのところをわきまえて、派手な行動は慎むべきではないかね?」
「はい、まことにおっしゃる通りで・・・・・・」
先ほどから、男はこのような内容の話を、微妙に言い回しや背景を変えつつ、延々と繰り返している。年長者と接する機会が多く、応対に慣れている伶ですら、さすがに気疲れを感じ始めていた。
なぜこう毎回、とため息が出そうになるところを、ぐっとこらえる。ここの所、渓都や樹里、雪などといった年若い者とばかり接していたためか、男の言葉が回りくどく感じられ、苛立ちが募った。ともすれば、思いが表情ににじみ出ているかもしれない。笑顔はゆるやかに引きつり、手は確実に汗で湿ってゆく。
(いつまでもつか――)
とうとう伶が限界を感じ始めた頃、思わぬところから救いの手が差し伸べられた。
「おや、これはこれは、思わぬところでお会いいたしますね」
かかった言葉に反応を返したのは、伶にしゃべりかけていた男である。彼は意外そうに目を瞬き、声の主へと目を向けた。背後からの声は、男の低さを持っている。
「――伯爵。なぜ、あなたがここに? 今日は舞踏者の集いのはずだが」
「おや、そうでしたか。私どもは、別の集まりに顔を出してきたところです。なぁ」
「ええ、あなた」
男の声に続いた女性の声には、確実に聞き覚えがあった。さりげなさを装い、背後へと向き直る。
「ここは公堂ですからね。名目上は誰もが使えますので、こうしてお会いすることも、めずらしくはないでしょう?」
「うむ、確かに」
伶と話していた男が、伯爵と呼ばれた男に完全に意識を向けた。すると、ここぞとばかりに伯爵が言葉を続ける。
「ここで会ったのも何かの縁。お忙しくなければ少々お話を――と、このような言い方は逆に失礼ですね。貴方ほどの身分の方々ならば、時間の使い方は私が気使うまでもないでしょう。いかがです?」
「うむ、当然であるな。余裕がなければ、立ち話などしてはいない。いいだろう。しばらくお前に付き合おうか」
「恐れ入ります。ということだ。お前、少し待っていてくれよ」
「かしこまりました」
話をまとめた伯爵が、男とともに去っていった。夫人の横で、伶は呆然とその姿を眺めている。
「――よろしいのですか?」
「ん、何が?」
「その、私と残ってしまって。ご夫君が気になさるのでは」
傍らの伯爵夫妻とは、密通を疑われるという因縁があった。騒動を起こした末、つい先日けりをつけたばかりである。いくつかの嫌がらせを受けたものの、あまり恨みには思っていない。原因がどちらに偏ることもなかっため、解決してしまえばそれ以上何を言っても、互いに益はないためだ。
伶はそれでいいとしても、伯爵にしてみればどうであろう。夫人の援助による、貧民街への学校建設はすでに完了し、山場は越えている。現在は夫妻の心情を推察し、あえて彼女への連絡を避けていた部分もあった。
にも関わらず、向こうから声をかけてくるとは、戸惑うな、と言うほうが無理であろう。しかし当の夫人は、面白そうに声を上げて笑っている。
「ふふ、気にしているようだったら、私をここに置いていきはしないわ。まぁ、完全に信頼できている、とは言いがたいでしょうけれど、信じようとはしてくれているの。いい人でしょう」
「そう、ですね」
夫人の顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいた。それだけでも、夫妻の関係の良好さが窺える。以前の彼女は、夫の話となると笑顔が曇っていたのだが、今はそれがない。伶は心からの安堵を、表情へと浮かべてみせる。
「仲がよろしいようで、安心しました」
「もう、夫が誰かを妬む理由もないしね。あれ以来、困ったことは起こっていないんでしょう?」
「ええ」
本日は、二人とも日常行事での外出であったため、地味な普段着を身につけている。ともにそれなりに高価なものではあるが、親しみの窺える、着古した感のある姿であった。
夫人に促されて場所を移動し、廊下にある休憩所へと足を向ける。個室に入ることはさすがにせず、二人はぎこちなさの漂う、会話を交わしていた。
「ところで、探偵さんから聞いたと思うけど、あなたが受けた被害は、全てがあの人がしたことじゃなかったのよ。いくらなんでも、毒を使うほどの恨みはなかったから」
「ええ、解っております」
毒、という単語に声をひそめる夫人に、青年は安心させるように笑いかける。
「私は態度が悪いですからね。さまざまなところから恨みを貰っていますから、その方面からでしょう。改善せねば、とは思うのですが」
「気をつけてどうにかなるようなことばかりでは、ないのではないかしら」
隣り合っている二人の距離は近い。しかし決して体が触れ合うことはなかった。何らやましいことはないのだが、再びあらぬ噂を立てられてはたまったものではない。こうして二人きりで話している時点でも、危険なのである。伯爵の気遣いと挑戦には、応じるべきだろうと伶は考え、会話を続けていた。
「あなたはただ立っているだけでも、難癖をつけられてしまうから」
「嫌味ですか、それは」
「あなたは目立つ、と言っているのよ」
相手が子供のような態度を見せたことで、夫人の機嫌は上昇したようである。伶には笑われた、という事実が見えるのみのため、ひねくれた心境になっていた。
「悪目立ち、ということですか。それでは、私は普通に生活することすらできませんね」
「あらあら、そんなにすねないで。確かに敵は作りやすいかもしれないけど、味方もいるじゃない。探偵さんとか、私達とか」
「渓都とあなた方夫婦、ですか?」
なだめてくる夫人に、不信気な視線を向ける。探偵と伯爵夫妻とは、特に仲がいいというわけでもなく、社会的には嫌い合っていてもおかしくないような立場にあった。そんな者たちが味方と言われても、納得はしかねる。