金色の目
「どうせ判子押すだけじゃん。めんどい」
などと言いつつも、資料を返された渓都は、自身の執務室へと戻っていった。見送った曽馬は、兄に困惑の視線を向ける。
「相変わらず、実家とは疎遠みたいだな渓都は」
「疎遠どころか。向こうからの関わりを片っ端から蹴ってんだ。ありゃもう、意地だな」
曽馬は「実家」と言いはしたが、渓都が父の家に住んだことはおろか、行ったことすらないことは知っていた。相手の身分から丁寧な言い方をしたのみで、彼らの誰も件の家を尊んではいない。
兄弟一家と渓都母子は、渓都らが貧民街に住んでいた頃の、ご近所さんである。母子家庭のため、遅くまで働きに出ている母を待つ間、よく曽馬や彼の弟妹達と遊んでいたことが、付き合いの始まりだ。
裕福な商家の出身のため、渓都の母はなかなか貧民街になじめなかったようである。けれど士族の夫婦とは話が合ったらしく、互いに助け合うことも多かった。
渓都の母親が亡くなった時、父親は縁を切りたいと考えたのか、彼に私有地を譲っている。そこに暮しつつも、身分違いの親子は、今だに互いの存在を無視し続けていた。
「まぁ、悪いことばかりじゃねぇさ。下手に華族と関わって、跡継ぎ争いに巻き込まれるよりはいいだろう」
「そっか。だから伶も、弟には会わないっつってんのかな」
弟の言葉に、和馬はさぁな、と肩をすくめる。特に否定したり皮肉ったりすることは、しなかった。
少女はこの家を訪れることを、毎回楽しみにしている。美しい音楽が聞こえ、優しそうな女の人が出迎えてくれるためだ。大きな荷物がある時は、男の人が出てきて手伝ってくれる。荷物を運ぶ間、少女にお茶を飲ませてくれることもあった。
家、と少女が呼んでいる屋敷は、彼女が住んでいる場所に建つものよりも、ずっと大きい。初めて届け物を頼まれた時は、場所を間違えたのかと思ったほどだ。
そんな少女も今やすっかりこの場所に慣れ、時折音楽を奏でている家の主に、会えることもあった。そのたびに彼は
「ああ、いつもご苦労様」
と言って頭を撫でてくれる。少し気恥ずかしく思いながらも、美しい青年に誉められて悪い気はしない。毎回撫でさせるがままにしていたが、本日は音楽が聞こえているので、顔を見る機会はなさそうである。
「伶様は来ないわよ。音楽会が終わってから、そっちの熱が上がっちゃって、近頃は一度やり始めると、なかなか出てこないの」
そわそわした少女に、召使いの女が笑いかけてきた。
届け物の花を手渡せば少女の仕事は終わるのだが、からかわれていたずら心がわいてくる。彼女の一家を雇っている華族は、この家の主の知り合いであった。あの家には色々面白いことが起きるんですよー、と言っていたことを思い出し、こっそり様子を見てみようと思ったようである。
玄関から中庭に回ってみた。背の低い少女の姿は、窓が開かれない限り見咎められそうもない。割にすんなりと、庭を歩き回ることが出来た。おっかなびっくりといった少女の足取りは、自然に音楽の聞こえる方へと向かう。主の様子が気になるのだろう。音の源を探す。
大きな窓のある一室の前で、足の動きが止まった。
(あれ?)
窓も室内も、少女にとっては申し分ないほどきれいで、目を引くものではある。だがそれ以上に惹きつけられるものが、部屋にはあった。楽器を演奏している、とばかり思っていた家の主の青年が、女性と話をしているのである。少女には解らないが、音は部屋の隅にある蓄音機からしていた。
(ここから見えないところで、別の人がしてるのかな?)
蓄音機を知らないため、首をかしげている少女の目の前で、青年ときれいな服を着た女性は、話を続けている。窓ガラスと演奏に遮られ、二人の声は届いてこないのだが、女性がとにかく口を動かし、伶はそれに応じているだけのように見えた。
(楽しそうじゃ、ない)
少女は心の中でひとりごちる。聞こえなくとも、困っているということは、青年のいつもより下がり気味の眉で知ることが出来た。たまにしか会わない少女にも解ることに、しかし話し手の女性は気付いていないようである。いじめの場面を見せられているようで、いい印象は受けなかった。
しばらくその様子を眺めていた少女だったが、代わり映えしない様子に飽き、別の場所へと関心を移す。珍しいつくりの中庭などを、面白そうに見て回ったのち、ばれないようにと、走って家の門を出た。それでは余計見咎められる、などと少女が考えることはない。
家の前の道も走りぬけてから、ようやく足を緩めた。家の人に怒られるとは思えない。ただ他の人には叱られるかも、と思ったことと、仕事があることを思い出したための行動である。
彼女はいつもこの時間、親に言われて街中で花を売っていた。今日は届けものの仕事が入ったが、日が昇っているうちは街に出ることが、日課となっている。売り物を貰いに行くため、少女の足は雇い主の家へと向かった。毎日目にする楽しい女性二人から、籠いっぱいの花を渡され、少女は仕事を始める。
「お花いりませんかー」
住宅街から商店街へと移動した少女に、二、三の人が足を止め、花を買って行った。特に必要はなくとも、愛くるしい姿に目を向けてゆくものも数人いることを、彼女は知らない。
商売の間は、身なりのよい人に近付いてゆくことが多い。そうするように、母や雇い主に言われているためだ。お金のある人の方がよく物を買い、品格の高いものが多いため、少女の身も安全なのである。
今も、高そうな洋服を着こなした紳士に花を売ろうとしていた。近付いて行くと、売り文句を言うよりも先に、向こうから声をかけてくる。
「こんにちは。君、この辺りの子?」
「いいえ。お家は、もう少し離れてます」
「でもここでよく売っているよね。お店が近いの?」
「はい。ですから、他の子より道を知ってますし、いろんな家も見られます」
先ほどの、伶の家を探索したことを指しての言葉であろう。少女は少し誇らしげだ。声をかけた紳士は、微笑ましそうに笑っている。
「じゃあ、華族の家なんかにも行けるよね。そういう所は、緊張しない?」
「いいえ。ご主人様は優しいですので、私の行くところは、いい人ばっかりなので、大丈夫です。ふふ、今日は女の人も見ましたし」
少女は、かの家の主と女性の関係を、色々と推測しているようで、男の様子には気を向けていない。男は少しだけ、唇の端を引き上げていた。
「そういう所ばかりならいいだろうけど、あちこち行くんでしょ。大変な家もあるんじゃない?」
「そうですね。前行ったおうちは、荷物が大きいのに女の子が一人いるだけでしたので、中に入れるのが大変でした」
「女の子が、一人で住んでるの?」
驚いたように目を見開く男に、少女は続ける。
「違いますよ、お留守番です。ご主人様に『大きなものを買った時は、家にいてください』って伝えておこうって言ってましたから」
当時のことを思い出したのか、少女は再びくすくすと笑った。つられたのか男も笑ったので気をよくし、少女はしばらく話をする。だが、ふと自身の影を見て、言葉を切った。
「あ、いけない。そろそろお仕事に戻らないと、叱られちゃう」