金色の目
伶の金目が大きく見張られる。少女を見つめ、ややあってから納得したように頷いた。
「そうか、若いからな。覚えが早いはずだ。それにしても、これはいい。君は立派な仕事をしているね」
「ありがとうございます」
「ところで、君にこのお茶の淹れ方を教えた男は、いつもどれくらいに帰ってくるんだ?」
「あ、はい。主人――渓都さんは」
しばし、思いを巡らせるかのように、首をかしげる。このところ遅かったのだが、仕事に片がついたとなれば、早く戻ってくるかもしれない。ちらりと時計に目をやったのち、少女は答えた。
「もうじき帰ってくると思います」
「では、待たせてもらう。ああ、だが食事前にはお暇するので、そのつもりでいてくれ」
「はい。かしこまりました」
「それと、筆記用具はあるかな」
「ただいまお持ちします」
茶器を引き上げたのち、紙とペンを持ってきた雪は、忙しいだろうからと、台所へと帰される。主以外の人がこの家にいる、という妙な状況に少々戸惑いつつも、浸っている余裕はない。夕食の仕度に取り掛かることにした。
(本当に何も出さなくていいのかな)
迷いつつも、言われた通りに二人分の食事のみを作る。家の外で待たせてしまったお客様に、お茶だけ出して放っておくのは、失礼に値するのではないだろうか。そんなことを思った雪は、煮込みに入った料理鍋から一度離れ、そっと客間へと足を向けた。
室内の伶は、真剣に書類と向き合っている。とても声をかけられる雰囲気ではない。困惑は解消していないが、静かに台所へと戻り、仕度を続けるしかなかった。
(渓都さんも、こんな気持ちだったのかな)
煮物が焦げないようにかき回しながら、少女は自分がこの家に来たときのことを思い出す。当時も家は無人だった。訪ねた昼間から暗くなるまで、家の前の石段に座り、家主の帰りを待っていたのである。
ちょうど、今日の伶と同じように。
雪を見つけた時の渓都は、彼女の幼さに困惑していることが、ありありと解る言動を見せていた。しかし、親もなく行くあてもないと言った少女を、見捨てることが出来なかったのだろう。結局は彼女を雇い入れた。けれど、戸惑いは残っていたのだろう。その日は食事もせずに、寝入ってしまったのだ。
少女は粗食に慣れている。一食を抜くくらいはたいしたことではない。だが、翌朝の渓都はしきりに(しかし表情は変えず)謝り通し、朝にしては豪華な食事を振舞ってくれた。
いいにおいのする湯気の中で、少女は嬉しそうに笑う。
「ただいまー」
廊下の向こう側から声がした。彼女は回想をやめて火を消すと、帰ってきた主を小走りで迎えに出る。
「お帰りなさいませ。あの、お客様がいらっしゃってます」
「客?」
薄手の上着を脱ぎながら首をかしげる主に、伶のことを説明した。彼は金の目に、納得したようの色を浮かべる。
「ああ、あいつね。何の用だろ」
「客間にいらっしゃいます」
受け取った上着を洗濯籠に片付け、雪は再び台所へと戻る。主の分の飲み物を用意し始めた。仕度ができ、客間へと行こうとすると、向かう先から大きな笑い声が聞こえてくる。
「え?」
はきとは確信できないが、主である渓都の声のようだ。彼は普段からあまり表情を動かさず、喜怒哀楽が少ない。声を上げて笑った場面になど、一度も出くわしたことはなかった。
何があったというのだろうか。気になりはしたが、窺ううち客間の扉が開き、二人分の気配が出てきてしまう。
「そんなことならいつでも来てよ。俺がいなくとも入ってていいし。お前も大変だねぇ」
「ありがたいが、その嫌味ったらしい言い方はやめろ」
「別に嫌味なんかじゃないし。お前が意識しすぎなんだよ」
二人は玄関に向かっているようで、声は廊下を進んでゆく。気付いた雪は小走りに後を追う。邪魔にならないように控え、見送ることにした。
「では、失礼させていただく。雪さんもお邪魔したな」
「どうせこれからも来るんでしょ。他人行儀な呼び方やめなよ。この子、そういうの慣れてないから」
確かめもせずに堂々と言う渓都の様子に、伶は心配そうな様子で少女の顔を覗き込む。そうなのか、と首をかしげてきた。気付いた雪は、風が起きそうな勢いで、首を横に振る。
「お気使いなく。これから慣れていけばいいことですので」
きっぱり言うと、伶は一瞬目を瞬いたが、すぐに腑に落ちたように頷いた。
「そうだな。慣れることは大切だ」
妙に納得しながら帰ってゆく姿を、二人で見送る。普段ならば黙って食事の仕度をするのだが、今日は珍しく雪は問いを発した。
「伶様は、何をしにいらっしゃったのでしょう」
渓都は、ん? と少女に目を向ける。
「特に何をしに来たってのはないよ。家に帰りたくないからって・・・・・・くくっ」
ふいに、肩を震わせ食事を中断する主に、雪は目を瞬いた。
「くっく、ごめんね。いや、あいつがうちに来た理由ってのがさ、見合い相手から逃げるためなんだって。それがおかしくてさ。あいつモテそうだから、そういうことって慣れてて、交わし方も知ってそうなのに、てんでだめみたい。今回も相手のほうから押せ押せで、家に押しかけられて困ってるとか」
渓都はおかしそうに笑い続けていたが、雪は笑うどころではない。相手の女性はおそらく華族の淑女だろう。高貴な女性のあまりにも大胆な行動に驚き、洗礼を受けただろう伶に、同情を覚えていた。
「おかわいそうに・・・・・・」
「そう? ふうん。女の子はそういう反応なんだ。へぇ」
思わず洩らした呟きに、渓都が楽しげに乗ってくる。
「じゃあ、これからちょくちょくあいつが来るかもしれないけど、いいよね」
「え?」
「ここを避難場所にしたいんだって、押しかけ恋人からの」
「は、はぁ」
伶のトラブルは、一日で解決するものではないらしい。それまで助けてほしい、ということなのだろう。渓都はしみじみと言葉を続ける。
「これはちょっと依頼にはならないからさ、お金はいいよって言ったら、代わりにこんなものくれた。主に世話するのはお前だろうから、あげるよ」
懐から差し出されたのは、少しよれた封筒だった。手渡された雪は、しばしためらったものの、促され中を覗いてみる。
「コンサートの、チケット?」
「あいつが関わってる公演なんだって。よかったら行ってきなよ。俺そういうのに興味ないし、お前行ったことないだろう」
確かに、ない。
身分的にも金額的にも、きちんとした公会堂で開かれる催しに、雪は縁がなかった。きらびやかな上流階級に、あこがれはある。少女らしいその思いは、確かに大きなものであったが、あくまであこがれ。遠い存在のものでもあった。
嬉しいことは嬉しいのだが、どうしていいのか解らない、というのが正直な感想である。困惑のこもった瞳で主を見返すと、年長の男はそっと首をかしげた。
「どうしたの。あ、ひょっとして興味ない?」
「いえ、そうではありません。行けるものなら行きたいんですけど、その、服が・・・・・・」
「え。ああ」