金色の目
夫人の言葉に答えるように、柔らかな風が吹きぬけた。乱れた髪は手で押さえられる。
「でも、最近は慣れちゃった。外に目が行くようになって、友達が増えて、やることもできて――それはそれで楽しいけど、やっぱり家が楽しくないとだめね。あの人は、私がこんなこと考えてるなんて、思ってもみないみたいだろうけど」
「おっしゃってみたら、いかがですか?」
不思議そうに問いかける凛には、なぜそうしないのかが解らないようだ。思いを伝え、話し合えば、何もかもが解決することは明白であるのに、とでも言いたげな顔をしている。
「言えるものなら言ってるわ。でもあの人は今、私のこと完全に疑ってるから」
「疑い、だけなんですか。本当に」
「やぁねぇ、当たり前じゃない。いくらなんでも十も年下の男の子に、手は出さないわよ。あっちにも、その気は全くないしね」
先ほどとは打って変わり、声をあげて笑いながら、彼女は浮気相手と疑われている、華族の青年を思い出す。子供のように純粋な目をした彼は、見た目と同じくまっすぐな口調で、自身の理想を語っていた。
貧民支援――
似たようなことを行う権力者は多い。だが、彼ほど真摯に事業に力を注いでいる者を、見たことがなかった。華族出身ではあったが、夫人は庶民と隣り合わせの暮らしをしてきている。貧しい市民の苦しみも垣間見ているため、何かできないかと思っていた。そんな折、出会った青年華族の理想に共感し、協力をしたというわけである。
夫人と青年華族は、たびたび邂逅を重ねていた。相手が男であったがため、見目麗しい者を好むことを知られている夫にも、理由をきちんと話している。納得してはくれなかったようだが。
「もう、どうしたらいいのかしらねぇ」
正直な心境であった。女主人の様子に、凛はしばし考え込むように腕を組む。夫人のため息の直後に、おずおずと言葉を口にした。
「あの、ひょっとしたら、お役に立ってくれるかもしれない人が、いるんですけど」
勇気を出したらしい娘の顔は赤くほてっている。夫人は、きょとんとした目と、白い頬を彼女に向けた。
「どういうこと?」
さて、この屋敷に勤める若い小間使い凛は、本名を庵凛という。変わった響きの名を持つ彼女は、十人兄弟の末っ子だ。家計を助けるためかつ「あんな狭い家は嫌っ」という本人の希望により、住み込みで働く生活を送っている。
仕事先は自身で選び、家族の意思など入れはしなかった。しかし何の偶然か、このたび兄の仕事との関わりが出てきてしまう。不本意ではあったが、兄を妨害する理由もない。雇い先での了解を得たことで、兄と伯爵夫人との会合の、橋渡しを務めることとなっていた。
兄と彼の仕事仲間を迎え入れた凛は、笑い出しそうな緊張したような微妙な心持で、お茶の仕度をしている。どうしてこんな状況になったのだろうな、と諦めに近い思いを抱きながら。
お茶を乗せたワゴンを押し、女主人と兄の友人がいる部屋へと向かう。彼女と部屋は、家中の召使いに注目されていたが、騒ぎ立てる者はいない。誰もが息をひそめ、移り変わろうとしている時を窺っているのだ。もう一人の中心人物である伯爵も、出てくるかもしれない。想像すると、緊張でワゴンを押す手も震えがちだ。
「失礼します」
扉を開き室内に入る。中は静かなものだった。話し合いはまだ始まっていないのか、中断したのか。ともかくお茶を用意した。
「ねぇ、この子にいてもらってもいい? このまま帰ったら、召使い達の注目の的だわ」
「ん? ああ、いーよ」
夫人の申し出を渓都はあっさりと受け入れたが、凛は目を丸くしている。確かにいきさつは知りたいのだが、夫人が自身を巻き込むとは思っていなかった。少女の驚きは気にされる様子もなく、彼らの話は続く。
「ともかくさ、俺らは別にあんたの旦那を訴えようとかって気はないの。ただ真実を認めて、やめて欲しいってだけなんだ」
「依頼人も大ごとにはしたくない、って言ってるしな。つーかあいつは、嫌がらせされっぱなしでも、気にしなさそうだが」
渓都と、彼に続いた凛の兄、和馬の言葉に、夫人はクスリと笑う。
「あの子らしいわ」
これまで、屋敷内では見たことのない穏やかな表情に、凛はどきりとする。お茶を配り終えてしまったことに、こっそりと安堵していた。でなければおそらく動揺し、何か失敗をしでかしてしまったことだろう。
「あの子には、下心なんて何もない。むしろ、やりたいことに私を巻き込んで、申し訳ないとすら思っているわ。だから、夫の様子は何も伝えなかった。少しでも愚痴をこぼそうものなら、きっと気にしてしまうでしょうし。言わなければ、気付かれない自信もあったからね」
「だろうな。だからって、それに甘えてもいられねぇよ」
「そうね」
夫人は表情を曇らせ、わずかにうつむく。思わず凛は兄に非難の目を向けるが、彼に応える様子はない。ただじっと夫人の様子を窺っていた。渓都も同様だ。
真幸からの情報により、彼らは伶を狙う相手のめぼしをつけている。しかし原因が私怨によるものだ、と見当がついてしまうと、動きづらくなってしまったのだ。政敵であれば公に訴え、権威を落とすなり罰するなりも出来る。だが個人相手となると、下手な手出しは逆に恨みを深め、大きな諍いへと発展する可能性もありえた。
そこにまで辿り着いてしまえば、手を引いたところで、渓都たちにも災難は降りかかってくるだろう。相手は華族、こちらは一般市民。ことを構えるのは避けたい。
幸か不幸か、凛というツテがあることが解り、こうして夫人との渡りをつけることができた。伶に嫌がらせをした犯人である、伯爵の説得を頼んでいるのだが、先ほどから渓都はどうにも、釈然としない。しいて言うのなら気に入らなかった。すんなり行き過ぎる会合も、愛想よく対応する夫人の様子も。
「あの子、伶が勘違いすることはなかったけど、夫の方はそうも行かなかった。どちらも私がしっかりと説明していれば、どうにでもなったでしょうに。やっぱり若い子の方に、多く力を注いでしまったようね」
笑みを浮かべながら、夫人は頬杖をついた。無作法な振る舞いであるが、腹を立てるほど礼儀にうるさいものは、この場にはいない。だからこその行動であろう。
「言い訳になるけど、しょうがないことだと思わない? 夫と伶とは、早婚の親子くらいに年の差があるんだもの。まさか、夫が本気で私達の仲を疑って、嫌がらせまでするなんて、思わなかったわ」
「具体的に、何をしたんだ?」
「ああ、確認ね。私も全部を知っているわけじゃないし、証拠も見てないけど。巷で流行している呪いに、手を出したらしいってことは、知ってるわ」
「呪いね」
和馬は懐を探り、木の人形を取り出す。先日伶の家の床下で見つかった、呪いの人形と同じものだ。向ける相手のいない、ただの木の人形に過ぎない状態である。
「これを使って?」
「ええと、どうかしら凛さん。何か知ってる?」
「あ、はい。伯爵様のお部屋の掃除を担当している方が、同じものを見つけて騒いでいた、という話を聞きました」
突然話を振られた凛が、しどろもどろになりつつ答えた。兄である和馬が確かか、と確認してくるので、たぶん、と頷き、付け加えるかのように言う。