金色の目
雪はさらにくすくすと笑い続けた。主がしごく真面目な様子で言っているためなのだが、見た目通りに渓都は真剣である。体からわさびのにおいがすれば、食べなくても食べた気になれる、と少し幸せな気分に浸っているのだ。
もちろん少女は、全てを冗談だと思っている。
二人分の食事を済ませたのち、雪は後片付けを始め、渓都は部屋に戻った。以降二人は特に顔を合わせることもなく、それぞれ眠りにつく。
真崎家の日常は、今日も滞りなく過ぎていった。
樹里は、渓都の依頼で屋敷に入った時から、伶に妙な奴だという印象を持っていた。華族に関わる仕事はこれまでにもあったのだが、彼はその誰とも雰囲気が違っている。
政治に関わっていないためだろうか。この家には影というものが感じられない。樹里たち庵一家のように、楽天的に明るくはないため、後ろ暗いことがひとつもないことはないのだろうが、なんと言うのか、清涼なイメージを抱かせるのだ。
規律正しい、かといって融通が利かないほど厳格というわけでもない召使い達。室内から流れてくる美しい音楽。風通しのいい庭。遊び心の感じられる家の造り。それらが全て、堂々と外に向かって開かれており、さあどうぞ、とばかりにそこにある。そんな感じだ。
作られたような感はあるものの、中に入ればそこには血の通った人がいる。泣いたり笑ったりしながら日々を過ごしていた。申し分のない、小さな楽園である。
楽園の主には、心の闇など全くないように見えた。華族であるため優雅な物腰で、かといって平民を見下したりもせず、優しく穏やかに接する。少し子供っぽい性質を持つ男だ。
青年本人に対し、不満がありようはずもない。ただ樹里は、彼に優しさだけではない何かがあることを、敏感に感じ取っていた。長いこと人に接し、培われた自身の勘には自信を持っている。
伶にはまだ見えない部分がある、と心の内では感じていた。
樹里は笑い、大きく伸びをする。それが何だというのだろう。仕事でしか関わらない相手のことを、隅から隅まで知る必要はない。例え隠しごとをされていたとしても、やることに変わりはないのだから。
「――っと」
一休みを終え、持ち場に戻りかけた樹里は、玄関に立つ友人の探偵――渓都の姿を発見した。彼は、何やら持っているものを出迎えた家臣に渡している。上がっていくようにとの勧めを断わっていた。家人が室内へ消えるのを確認したのち、樹里に向かって手招きをする。
「何だい?」
足音と気配を極力断ち、渓都の元へと進む。話ができるところはないか、と問いかけられた。
「この上なんかいいよ。景色はいいし、人はいないし」
「じゃ、そこで」
と、二人はためらうことなく、他人の家の木を伝い、他人の家の屋根へと登っていった。
「で、何。向こうで動きでもあった?」
「んー。あったはあったね。けど向こう違い」
「どういうことさ」
樹里の声にやや厳しさがにじむ。しかし渓都は常と変わらないぼんやりとした態度で、困惑気味に頭をかいていた。
「えっとね、正直俺もそんな大騒ぎするほどのことかどうか、解ってないの。だから、お前にはしゃべってるけど、伶には言うつもりはない。解るよね」
「なるほど、余計な負担はかけない、ということか」
「別に、あいつのことを考えてる訳じゃないけど」
渓都は、ふてくされたように言葉を紡いでいる。彼が伶を気づかうような言動を見せるたび、和馬がからかうので、癖になっているようだ。本人に伶を特別気づかっているつもりは、全くないのである。
内心まで見透かしているわけではないが、長い付き合いだ。相手の様子から何かあったのだろうと判断し、さばさばと続きを促す。
「なんかね、うちに知らない人からわさびが届いたの。雪は隣から貰ったって言ってたんだけど、次の日その家の子供が、わさびは知らない人からの贈り物だから、気をつけろって言ってきたんだって」
あっさりと調子を取り戻し、首をすくめる友人に、樹里はいろいろな意味で目を瞬いた。
「わさびに害はないから、自分で食べて、残ったのは和馬とほら、さっき伶んちにもあげた。ねぇ、これって何か今回のことと関係あると思う?」
「その話、兄貴にもした?」
「ん? ううん、これから事務所に行くんで、その時に話すつもり。まー、何にもないとは思うけど、お前外にいるから気をつけてね、って言いに来た」
「解った。そのこと、ちゃんと兄貴に伝えとけよ。伶には言わないでおくから」
「うん、ありがとね」
話を終えると、渓都は屋根から飛び降りる。手を振りながら、平然と屋敷を出て行った。
「相変わらず動じない奴だな。そこが頼れるところでもあるんだけど」
樹里ら庵一家は、貧民街で育ったがゆえに、人を見る目は厳しい。こうして渓都に全面的な協力をしているのも、腐れ縁のためというだけではなかった。金持ちの父を持つ幼なじみに、協力するしないを選ぶ権利は、庵家側にある。おそらく彼はそれを解った上で、彼女たちを頼り、平然としているのだ。
樹里は肩をすくめると、静かに空を見上げる。爽やかな青が、一面に広がっていた。
「君もたいがいお人よしだよね。ま、そこがいいところでもあるんだけど」
言葉を耳にした渓都と和馬は、揃って顔を見合わせる。二人は今、渓都の家の裏庭からこっそり隣家の様子を窺うという、いたずら坊主のようなことをしていた。小間使いの雪にもばれぬように行われているため、ますます訳が解らない行動である。
二人は真剣そのものといった様子で、隣家に意識を向けていた。幸い彼らの姿は、誰にも発見されていない。言葉は続いていた。
「君はまだ仕事をしてないけど、いずれは僕の跡を継いでもらうことになるんだ。それを、ぺらぺらとしゃべっちゃうなんて、そんなに隣の子はかわいかったのかな」
「そんなんじゃねえよ。どうしてあんたはいつも、そっちに話を持ってくんだよっ」
大人の声に、子供が怒鳴り返している。おそらく彼が、先日雪に忠告をした子供であろう。今はそのことを咎められているらしく、声には焦りと苛立ちがこもっていた。一方で、大人は落ち着いた調子である。渓都の金目には、わざとらしい笑みを浮かべ、ふてぶてしく足を組む若い男が映っていた。
彼はこの家の主であり、少年の保護者である。先ほど渓都と和馬が、二人がかりで揺さぶりをかけた相手でもあった。
彼らは、雪から伝えられた「わさびの送り主」を確かめようと、仲介をしたらしい隣人に、探りを入れているのである。相手がご近所さんであるがため、やりにくい部分もありそうなものだが、和馬はおろか渓都にもためらう様子はない。普段通りに調査を進めていた。
「だって、向こうがしっぽ出してきたんだもん。生かさなきゃ損でしょ」
この行動は、主よりよほど常識的な雪には伏せられている。言えば、隣家を気にするだろうという配慮だ。
本音のところでは、怒られそうな気がする、という渓都の経験に基づく直感のためである。非常識なことをしている自覚は、あるらしい。