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偶像の愛

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 私の頬に触れていた彼女の手がするりと落ちて、私の首元に触れた。きっと脈が速いのかもしれない。気付かれたくないけど気付いて欲しくて、彼女に触られるがままになる。彼女の手はゆっくりと下りていって、私の胸に触れ、腰に触れた。何かを愛でるような手。彼女の中で、私はなんだか別の人間のように思えた。
「はーちゃん」
 唇のかすかな隙間から見える彼女の舌が、私の頭をおかしくする。ちかぱかと目の中で火花が散って、私はどうでもよくなる。駆けめぐるこの思いは、頭と心のどちらからやってきているんだろう。期待するような目で見ると、彼女は笑った。
「だめだよ、えりちゃん」
 折角きれいにしたんだから。彼女はそう言って私の腰から手を離し、のろりと体を起した。彼女の唇には楽しそうな笑みがのっかかっていて、私もそのまま一緒にのっけて欲しいと、つよく思った。
「……もう、時間だよ」
 彼女は後ろの時計を振り返って、私に立つように促した。後ろの時計はかっちかちと未だに止まっていて、ここはずっと四時五十分のままだった。
 私が彼女の上から退くと、ゆっくりと彼女は立ち上がった。かっち、かっち。進まない秒針が鳴るなか、彼女はすたすたと部屋の奥へ歩いていく。私はそんな彼女の背中を見つめながら、ぐるりと辺りを見渡した。
 ちいさなキッチン。コンロの上に赤い鍋。流し台の下におそろいの青いスリッパ。お風呂場にある赤と青の歯ブラシ。もう随分二人で使っているベッド。赤と青のブランケットがのっかかっていて、毛布が乱れている。タンスには私と彼女の服と下着が入っていて、上には彼女と私の思い出の小物をたくさん飾っている。ずうっと昔に彼女がくれたもの、ずうっとずうっと昔に私が彼女にあげたもの。あげた覚えはもうないけれど、小物は存在するのだからきっと思い出は存在するんだろう。
 この世界には彼女と私のものしかなくて、彼女と私の匂いがして。二人だけで生きていける錯覚を私に感じさせた。
「えーりちゃん」
 ひらりと彼女のワンピースが風で煽られた。いっぱいに開けられた窓は夏そのもので、まぶしいくらいの青い空が私を麻痺させた。外は危険だからきちんと閉めておこうねと言った彼女はもういない。久し振りの空はとてもきれいで、鳥も、人も、何もいなかった。少し汚れた白いカーテンが、ふわぶわと風にもてあそばれていて、空の半分以上をおおっている光が、ぎらぎらしていた。
「はーちゃん?」
 彼女の名前を呼びながら、裸足でそそそと絨毯をなでるように歩き始めると、窓枠に手をついている彼女が笑った。
「もう大丈夫?」
「うん」
 そっか、と彼女は笑って、私の手をやさしくつかんだ。二人で狭いバルコニーに出ると、青い空がめいっぱいに広がった。ぎらぎら。裸足で触れるコンクリートは、かたかった。
「空、きれいだね。はーちゃん」
「うん、久しぶり」
「ずっと見られなかったもんね」
 手を離されたくなくて、しっかり彼女の手を握りながら彼女をバルコニーの手すりの上に座らせた。彼女はいつもよりましてきれいな笑顔で、私に向かって笑いかけた。ひるがえる彼女の水色のワンピースにならって、私の桃色のワンピースもひらりひらりと揺れる。これも、おそろいで買ったもの。
「えりちゃんは、かわいいなあ」
「はーちゃんはそんなことばっかり言って」
「だって、本当のことだもん」
 それに私はずっとえりちゃんの傍にいたかったから、と彼女は笑って、それから空を見上げた。あおあおしい空と、風のような彼女のワンピース。そらぞらしい静けさと、つみきが崩れたようなばらぼろの地上。
「ねえ、えりちゃん」
「なあに、はーちゃん」
 私は首をかしげる。この仕草は彼女が教えてくれた。彼女の真似をして、私はやっと覚えた。この仕草をすれば、彼女は喜んでくれる。
「えりちゃんは、しあわせだった?」
 彼女は足をぶらぶらさせながら、私にたずねた。しあわせ? うーん、しあわせかあ。悩むふりをしてみたけど、彼女は困った顔一つせずに私の返事をにこにこと待っている。
「私と会ってからずっとしあわせだった?」
 彼女はちいさく付け加えた。そういえば、私は彼女にずうっと昔から出会っていたんだろうか。
「……うん、しあわせだったよ」
 そっか、と彼女のつぶやく声がして、私はなんだか泣きそうになった。泣くことが何かなんて、私は知らないのに。
「ほら、手。はなして?」
 かたくなに彼女の手を握っている私の手を、ぷらぷらと彼女は揺らした。離したくないのに、私の手は彼女の手を離す。彼女のあたたかな熱がなくなって、私の指は「さみしい」と言った。
 ぶわりと風が吹く。ぎらぎらと光がうるさい。彼女はさみそうに下を見たあと、私にゆっくりとほほ笑んだ。そのとき、私のなかにぴいんと情景が浮かんだ。彼女のその表情はあのときのものだ。古びた埃くさい美術館で、あの像を見た時の笑み。そうだ、あの像の題名。
「はーちゃん」
「なあに?」
「思い出せたよ、あの像の題名」
「そう」
「うん、あのね」
 ぐらあり。空を仰ぐようにして、バルコニーの外へ落ちる彼女。水色のワンピースはぱたぱたと揺れ、彼女の白い足が最後に見えた。なんてきれいなんだろう。ひゅうううん。彼女が、落ちる。
 どすっ、という鈍い音が聞こえると、私は体の力が抜けてその場に座り込んだ。私の頭によぎるのは落ちる彼女の笑みと、苦悩した男性と少女が複雑に入り組んだ像。
「あれは、『不老の愛』」
 像が何を表わすのかわからなくて、彼女に何度も聞いたことがあったけれど、彼女はただほほ笑むだけで教えてくれることはなかった。今でもわからないし、きっと今聞いても彼女はまた笑うだけだろう。
「どうして、笑ってたんだろう」
 ずうっと思い出せなかったことが今になってぽこぽこと目の奥に現れた。あの像を見たとき、周りには今よりもっとたくさん人がいた。まだみんながしあわせだった。高校の見学で訪れていて、好きな作品を選んで感想を書かなければならなかった。彼女は、『不老の愛』について書いていた。
「愛はすぐ死んじゃう」
 不老の愛は存在すると言った彼女に、私は反対した。愛なんてすぐ死ぬ、愛の寿命は短いと言った。
「今までずっと死ななかったんだね、はーちゃん」
 彼女がどうしてあそこまであの像にこだわったのか、私はわからなかった。わからないこそ彼女はあいまいに笑って、私を愛していた。私は愛していなかったのに。
「はーちゃん」
 ぎい、ぎい。足にあたるコンクリートがかたくって、私はゆっくりと立ち上がった。よろけながらバルコニーから出て、ガラスの窓を閉め、鉄でできた頑丈な扉をばっしゃんと閉めると、再び閉鎖的な世界が戻ってきた。彼女と私のものしかない、彼女と私の匂いしかしない世界。二人だけしか存在しない世界。なんて素敵な、なんてしあわせな世界。
この世界の外はとても静かで、時が止まっている、悲しいところ。彼女と私以外にばらばらと死んだものがあって、彼女と私以外のさみしい匂いがする世界。私はそんな外の世界がたまらなく怖くて、もうここから出ていくことはないぞと決めて、這うようにしてベッドにのぼった。
「ちくたく。ちく、たく。」
作品名:偶像の愛 作家名:べす