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偶像の愛

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きもちがいい。
 私はそう思っていた。この世界には私と、彼女しかいない。その事実がすばらしくて、きもちよかった。ほかの人間なんていない、彼女と二人きりの世界。
「えりちゃんの髪は、好き」
 ふわりと私の髪をいじる彼女の手はとても繊細で、くすぐったくて、胸がどきりどきりとする。彼女に触れられるたび、髪の一本一本がうれしいと言うように、喜びでぶるぶるとふるえた。細くてきれいな彼女の指は、私の黒髪にすくりすくりと埋まる。きもちがいい。髪を触れられること、彼女に触れてもらえること、彼女といること、すべてがきもちがいい。
「きれいに結っておかないと」
 だって女の子だもん、と後ろで彼女は笑いながら言って、私の髪にせっせと三つ編みを作る。はーちゃんも女の子じゃない、と心のなかでつぶやきながら、彼女の顔が見えないこの体勢をうらんだ。彼女の顔が見たい。彼女のくせっ毛、なかなか直らない寝癖をこしらえて、困ったように笑う彼女の顔が見たかった。
「ねえ、はーちゃん」
 いつの間にかぼろぼろになってしまった、くすんだ藍色の櫛が私の髪をとかすのをやめた。私の声に彼女がちいさく、ん? と聞き返してきた。きっと首をかしげて不思議そうな顔をしているのだと思うと、ぞくぞくした。彼女の何気ない仕草が、私はすごく好き、好き、好き。
「はーちゃんの顔が見たいなあ」
 私がそんな風にわがままを言うと、後ろでくすりと笑われた。ああもう。一気に恥ずかしさがぽぽぽっと顔にあつまる。ぼうぼうと火を噴きそうな勢いだ。なんてはずかしいんだろうと思っていると、彼女は私の頭をなでてくれた。
「いいよ。えりちゃんのわがまま、聞いてあげる」
 ぎい、と床の軋む音がして、後ろの気配が動く。見えなかった姿がゆっくりと視界に入ってきて、ひらりとしたワンピースが見えた。彼女にとてもよく似合う、水色のワンピース。私の前に現れた、ひらひらに包まれた白くなまめかしい脚にどくりとした。
「ごたいめーん」
 ゆっくり視線を上に上げると、意地悪そうにふふふと笑う彼女がいた。少し茶色がかかった、ぴよりとはねる彼女の髪。肩をすっかり通り越した彼女の髪を見て、こんなに長かったっけと思った。
「前は肩にかからなかったのに、長くなったね」
 彼女の髪に触れながら私がそう言うと、彼女は少し悲しそうに笑った。そうだね、と目を細めた彼女のかすれた声は、哀れに近かった。何か悪いことでも言ったかなと心配になっていると、彼女は私の頬に触れた。じんわり。彼女の熱が伝わる。
「なんだか向かい合うと、はずかしいねえ」
 少し照れたように言って、彼女の眉がうにゃあとねじれる。そんなやわらかそうな眉に私が笑うと、藍色の櫛が私の髪に侵入した。かすす、すうと音がする。少し目を動かすと、すぐ近くに私を見つめる彼女がいて、ああもうなんだかとても素敵だった。けれど見つめ合うことがはずかしくて、私は彼女の後ろにある壁時計をちらりと見た。かちりかちりと壁時計は唸っていて、秒針がいったりきたり。……そういえば、ずいぶん前から壊れている気がする。いつからだとかは忘れてしまったけれど。四時五十分で止まっている壁時計は、かちりかちりと私たちを憎んでいた。かちちか、かちり。
「はい、できあがり」
 時計の秒針をじっと見ていた私に、彼女はぽおんと肩をたたいた。ふと見るときれいな三つ編みがふたつ、ちょこんと存在している。自分がやるよりもきれいで(といっても私は自分でできる気がしない)、三つの髪の束が複雑に入り組んでいるさまは、いつか昔に彼女と見に行った美術館に展示されていた不思議な像を思い出させた。何の意味を込めて作られたかわからない、変な像。確かあれの題名は……。
「えりちゃん」
 ほら、と彼女は私の前に大きな手鏡をかざした。この手鏡もくすんだ群青色で、机の引き出しの奥に固まった青の絵の具みたいだった。かりかりと爪でとろうとすれば、爪の奥に入ってもっとひどいことになる、あの固まった絵の具だ。爪の奥に入った絵の具をとろうとして、違う指の爪を使ってとろうとする。そしたらまたその爪に絵の具が入って……どうどうめぐりだ。
「こら、なにぼうっとしてるの?」
 くすくすと笑い声が聞こえて、私ははっとした。彼女は、ぼうっとしている私の目の前で手鏡をぶらぶらとさせている。ああもう、なんてつまらないことを考えていたんだろう。最近の私は、なんだかおかしい。頭がぼかんぼかんとしていて、眠る時間が長くなった気がする。気のせいかもしれないけれど。
「三つ編み、きれいにできてる?」
 彼女の声に、私ははっとする。きゃらきゃらと彼女は笑って、私の三つ編みに触れた。鏡には私と、三つ編みと、彼女の手が映っていた。耳の後ろから丁寧に結われた三つ編みは、両側にちょこんとついていて、まっかなリボンでまとめられていた。
「はじめて出会った時のえりちゃんをイメージしてみたの」
 はじめて。私と彼女のはじめてはいつだったんだろう。何年、何十年、ともう日にちの感覚がわからないくらい彼女とずっと一緒にいる。私は多分はじめてを知らないかもしれない。だって、こんなに彼女は笑っているのに私は笑えないから。
「はじめての私って、こんなだった?」
 鏡のなかの私は、三つ編みをしているせいか少しだけ幼く見えて、これがはじめての私なのかなあと思った。けれど見覚えのない自分にとてつもない違和感を覚えて、そっと眉間にしわを寄せると、鏡の中の私にも眉間にしわができる。ちょっと、私の真似をしないでよ。
「そんな顔しないで。ずっと笑ってて?」
 そう言って、彼女はふふうと笑った。さみしそうで、うれしそうな顔だった。
「笑ってる顔、ずっと見ていたいの」
 ぱふんと群青色の手鏡を彼女は床に伏せる。彼女はそうやって無造作に床に物を置く。ペンだとか……、なんだとかを床に。そうして彼女が踏んで、とても痛い思いをするのだ。
「もう私だけなんだから」
 ゆるゆると彼女の両手が伸びて、私の頬を包み込む。ほうり、ほうり。彼女はあたたかい。
「はーちゃんばっかり、ずるい」
 彼女のあたたかさにくらくらしながら、私は彼女のほうに手を伸ばした。あたたかい彼女。そのあたたかい彼女の熱が、私も欲しかった。
 けれど、私のちっちゃな復讐は彼女にはわかっていたようで、思い切り伸ばした手を彼女はつかんで、すっと体をそらした。あ、ちょっと。そのまま彼女に引っ張られるようになって、バランスをくずした私は彼女の上にのるようにして倒れた。
 ぽふん、と絨毯が音を立てて床がぎいいと軋んだ。私の下敷きになった彼女はおかしそうに笑って、とても楽しそうに見えた。意地悪そうに笑う彼女と、そんな彼女を見下ろす私。少しどきどきして、ちらりと見える彼女の鎖骨がまぶしかった。
「……えりちゃん」
 私を呼ぶ彼女のかすれた声に、体にびりびりと欲情が走った。絨毯にちらばる彼女の髪。細められた彼女の目。私に組み敷かれている彼女。私の体を支えている腕がどくんどくんと脈打つ。どくん、どくん、どっくん。不協和音。
「どきどきしてるの?」
作品名:偶像の愛 作家名:べす