ナイトメアトゥルー
と、屋上を後にする追浜にはそれしか言えなかった。
無機質な鉄の音を響かせてドアは閉まる。
追浜の後姿が屋上の扉へと消えるなり、空から大粒の雨が降ってきた。
よく見ればずっと空は真っ暗だった。
これならば俺達以外に人がいなかったことにも納得がいく。
誰もいないことをいい事に、
「なんだよ、今日の天気予報、雨降らないって言ったじゃねぇか…。」
と、誰かに聞こえそうな音量でいった。
でも、逆に誰かに聞いてもらいたかった。
そして、教えてもらいたかった。
追浜が弁当を持ってきた理由と、何故、急に弁当を持ってこないと言い出したのか。
インターネットですぐに答えが得られる時代になっても、この事に関しては答えてくれる人はいない。
さらに、この答えを見つけるのは今日の天気予報よりも難しいと思った。
それから雨は午後の授業中ずっと振り続いていた。
午後の授業の2コマは世界史と化学。
ゲルマン人が南下しようと元素の外殻がいくつだろうとそんなことを覚えて人生の何の役に立つのだろうか?
漫然として態度でも惰性に時間は過ぎる。
下校の時間になり、部活に精を出している連中達に挨拶し帰宅の途についた。
春とは言え、この時期の雨は寒い。
何も考えずにただ足が向く方向に歩いていくと、いつの間に線路沿いの商店街に来ていた。
雨はもう上がっていたが気温の低さは相変わらずである。
ちょうどさしかかった踏切の警報器が鳴る。
同時に同じ方向に歩いていた人々が、遮断機が降りる前に踏切を渡るため足早に踏切内を通り過ぎて行くが、それに加わる気力は当然に無い。
踏切の手前で足を止める。
寒さに身ぶるいしながら踏切で電車の通過を待った。
電車が通過し遮断機が上がる。
向こう側から人と車がのっそりしたスピードで向かってくる。
冷たい表情の群衆とすれ違う。
だが、その群衆の中から艶やかさと若々しさが入り混じった声が聞こえた。
「あれ?いすみ君?」
声のする方に視線を向ける。
そこには永年開花の女性がいた。
テンションが自然と上がる。
「美絵さん!!!お久しぶりです!!変わらないですねぇ!!!」
お世辞ではない。
ただ彼女は美しい、それだけだ。
「もう。お上手ねぇ。」とおどける奇跡の子持ち30代。
そんな美貌さえも鼻に掛けない。
そこも彼女の魅力の一つである。
この会話のやりとりの間に、美絵さんと線路を渡りきった場所まで足を運ぶ。
「あれ?今日お仕事は?」
「昨日からの通しの仕事が終わって、今帰りなの。」
「へぇー、大変ですねぇ。」
昨日から仕事だったんだ、でも疲労の様子は一切見えない。
ん?でも、何だ、この心のひっかかりは?
「ううん。好きなことを仕事にできているから苦じゃないわ。
でも、叶絵と一緒にいる時間が少なくなるのは切ないとこね。」
「一見すると姉妹ですからねぇ…」
「もう、本当に相変わらずいすみ君はお世辞ばっかりね。もう生意気。」
怒る仕草もどこか可愛い。
しかし実際、この女性は追浜 叶絵と姉妹と言っても他人を騙せてしまう。
{現役女子大生モデルとその妹の女子高生}
この特集でファッション雑誌の表紙と巻頭10ページは埋まるだろう。
美絵さんの一挙手一投足に惚けている内に心のひっかかりはもうすでに忘却の彼方にあった。
美絵さんと昔話に花を咲かせている間に何本もの電車が往来していった。
(東京の私鉄って何でこんなに本数多いんだ?)
また警報器が鳴りそうである。
そうだ、弁当のお礼を言わないと。
「美絵さん、いつも美味しいお弁当をありがとう。」
踏切の警報器が鳴り遮断機が下りてきたと同時に、今まで柔和な笑顔だった美絵さんの表情が一転、訝しげな表情に変わる。
「え?お弁当?
あの子が中学に入ってから私は作ってないわよ。
だって私の職場、仕出し弁当が出るし。
それに家には滅多に帰れない仕事だからあの子のお弁当なんて作った事ないの。
そのせいで、いつもお弁当はあの子が作ってるの。
親として失格だわ…。
だから、そのお弁当はあの子が、――――――――――。」
タイミング悪く、丁度電車が通過した。
電車の通過音は美絵さんの声をかき消した。
しかし、聞こえなくても美絵さんが言ったことは十二分に理解できた。
そして、美絵さんと会った時に抱いた心のひっかかりが解けた。
今日の昼、追浜は「今日美絵さんが休み」だと言った。
だが実際、美絵さんは今、仕事帰りだ。
弁当をそれぞれの手に一個ずつ持っていたから、指を指す行為を確認できていなかった。
あいつはあの時も嘘をついていやがったんだ。
いや、そんなことはどうでもいい。
悪いのは俺だ。
何で…何で気づいてやんなかったんだ…。
あの弁当は追浜が俺の為に作ってくれたことを。
俺は追浜 叶絵を傷つけた。
俺の為に頑張ってくれた彼女を。
言葉という積極的な理由ではなく消極的な不作為によってだ。
理由は簡単だ。
俺が言わなければならない一言を言ってなかったがために、追浜は弁当を作る気力を無くしたんだ。
それを「周りの目」っていうことをもっともらしい言い訳にして。
彼女はその一言が欲しかったんだ。
教室に追浜がいなくて言うタイミングが無かった?
それは俺自身が良い風に解釈していたに過ぎない。
第一、 俺は部活に入っていないのだから終礼後にいくらでもタイミングがあったはずだ。
もしかして…、あいつは、人がはけた時間に俺が話しかけるのを待っていたんじゃ…。
そこで弁当のネタばらしをするつもりだったんだろう。
あいつは、昔からそうだ。
自分の功績を他人に譲るんだ。
例えば、合唱のコンクールの時だって、俺が指揮を間違えても、事もなしに伴奏を続け、
俺達のクラスは入賞した。
それを、指揮者の俺のおかげとして、自分は一切前に出ようとしなかった。
入学式の時、変わりすぎだと思ったが、お前は全然変わってなかったんだな、追浜 叶絵。
あいつは単なる幼馴染ってだけじゃない。
そうか…、待瀬はだから聞いてきたのか。
「美絵さん。ここいらで失礼します。」
「あ、そうね。随分、話しこんじゃったみたいだし…。」
美絵さんの「んー。」と、唇に人差し指を当て通り沿いの店内の時計を見る横顔は全国のミス女子大生を駆逐してしまうほど可愛らしかった。
次、会うためのフックは作っておこう。
「あ、またビーフストロガロフ食べさせてくださいね。じゃ」
美絵さんに作れない料理は無い。
「うん。今度また家に遊びに来てね。」
ニコリと笑った美絵さんの表情を写メで撮りたかったが、その誘惑を断ち切り足早にスーパーへと向かう。
思い出したぜ。
調理実習で作って当時のクラスみんなから好評を博したあれを作ってやる。
米食を普及させる為の教育かは定かではないが、ともかく白米に合う料理を作る授業だった。
その時を境にして追浜はそれが好きになった。
今日の夕時のテンションは昨日とは180度違う。
人の為に何かを成し遂げようとすることはこうも行動動機を高めてくれるものなのか。
スーパー内でカートを押す力も自然と強くなる。
レジで会計を済まし店外に出ると空は薄い雲を残して晴れ渡っていた。