「極楽往生の切符」
本願といいますね。この弥陀の本願に従って念仏を称え
る。
この弥陀の本願というのは、「至心に信業して我が国
に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、若し生ぜずんば正覚
を取らじ」
この至心というのは一心不乱と一緒です。
心の極限を表すための言葉ですね。
信業というのは信仰です。
ですから我々凡夫の精いっぱいの至心です。
この本願は阿弥陀様が如来に成る前に誓った言葉なん
です。
私は将来必ず如来に成りますと、菩薩のときに誓った言
葉ですね。衆生済度のために受け入れる極楽という浄土
を作ると。その極楽浄土に往生しようと思って至心に信
仰して、我が国というのは極楽ですね。
たとえ十遍なりとも称えたならば、若しその者が極楽往
生することが出来ないというようなことがあれな私は如
来には成らんと誓ったんですね。
ところが今現に阿弥陀様は、極楽という浄土を作って、
正覚を取って、今からもう十劫経ってるというのです。
だからこの十遍というお念仏は実行すれば必ず阿弥陀様
は、極楽へ引き取って下さるという我々に対する誓いで
すね。
では平素十遍称えたら極楽往生出来るのかというと、
そうじゃない。この十念というのは、臨終のときの十念
です。
平生に十念称えて死ぬまでちっとも称え無かったら往生
出来るのかというと出来ないですね。
そしてもうひとつは、大無量寿経というお経の中に出て
くる一説ですが、また別に、お釈迦様が、「其の名号を
聞きて信心歓喜し乃至一念至心廻向して彼の国に生ぜん
と願ずれば乃至往生を得」
弥陀の本願では乃至十念とあるのに、ここではお釈迦様
は乃至一念とおっしゃっています。
どっちも仏様であるのに矛盾したことを言ってるじゃな
いかといえば、ちょっと疑問になりますが、如来様は絶
対に間違うことはないんです。
それはそのまま信じないといけませんね。
お釈迦様は阿弥陀経を説いてあるんですよね。
そして観無量寿経を説き、大無量寿経を説き、阿弥陀様
の三部今日は皆お釈迦様が説いてあるんです。
ですから阿弥陀様という方は、どういう方でどういう誓
いを建ててと、どんなことも皆知ってるわけですよね。
ですから阿弥陀様は本願に十念称えた者が極楽往生出来
なければ私は正覚を取らじと言ってるが、お釈迦様は乃
至一念。
たった一念でもいい至心に廻向して。
この回向してというのは、極楽往生を願って至心に念仏
を称える。
廻向というと皆さんは、只単にお経を読んでるのを廻向
というのですが、そうじゃなくてお経を読んだら必ず功
徳がある。その功徳を向こうへ廻らせ向かわせるという
のが廻向という意味なんです。
只自分がなんまんだぶと木魚叩いてお経を読んでいたら、
それは単に読経であって、母の為に父の為にと思うてお
経を読んでいたらそれは廻向なんですよ。
そのお経を読んだ功徳が必ず向こうへ届いて、それによ
って母とか父がこっちで読んで貰った廻向の分だけ助か
るんです。
それは坊さんはお経を読むのが仕事だから我々が読むよ
りはというので来てもらってということで法事に来ても
らうわけです。
それにはお布施を払いますからそれは施主の功徳、気持
ちがみな向こうへ届いてるわけです。
その功徳を向こうへ送るという意味が廻向であって、お
経を読むことが廻向じゃない。
お経の功徳を向こうへ廻らせ向かわせる。
だからお経だけじゃなくて、お供養しますがお供養した
らその功徳は一旦施主が受けて、然しながら自分のため
にお供養してるのと違う、母の為父の為にと思うてお供
養を出すわけです。
だからそのお供養の功徳は自分を通じて母であり父に向
こうへ送られていく。
その送られていくのが廻向です。
だからお経を読んでも功徳がある。
物質的に人様にサービスしたらその功徳がある。
或いは肉体的に、誰か困った人の為にと人助けをすると
それは皆功徳になる。
ただボランテアは先祖の為にとやってませんから自分の
功徳になってるはずです。
然しながら信仰のあるボランテアは、今日は一日やった
ことの功徳は皆親父のためにという気持ちでやっていた
ら、死んだお父さんのところへその功徳がみんな行く。
みんなじゃありませんが、残るんですがね、そういう意
味が廻向ですから。
そういう場合は死んだ人のための回向なんですね。
ところがここでいう廻向は、至心に廻向して彼の国に生
ぜんと願ずればと。
自分が極楽往生するための回向なんです。
自分の為の回向なんですね。
自分が極楽往生させて頂く、その功徳としての安心のた
めの回向。
例えば、ちょっとでも功徳を積ませて頂いてと思って、
人様になにか物を差し上げたとしますね、その廻向を、
その功徳を母父の為じゃなくて自分が死んであの世へ行
ったときのためにその功徳を加えて頂く。功徳はいくら
あってもいいんですから。
なにかちょっといいことをしたなと思ったら、願わくば
この功徳を極楽往生のためにして下さいと思ったら、そ
の功徳は極楽往生のための功徳になっているわけです。
「一念至心廻向して彼の国に生ぜんと願ずれば乃至往生
を得」というのは臨終の一念ですね。
臨終の一念は平生百年の業に勝るというお経があります
ね。
平生健康なときに百年間いいことばっかりした。ところ
がなにかの具合で臨終のときに、ふっと悪念が起った
そうすると、その折角積んできた百年の功徳は、臨終の
一念の悪念によって吹き飛んでしまう。
逆に、百年間悪いことばっかりしてきた。
ところが臨終のときに本然と改心して、たとえそんな人
でも若しそこで念仏を称えたら極楽往生出来るんです。
悪人は除くというお経は無いんですから。
例え人を殺したり物を盗ったと、然しながらその人が、
ちょっと有り得ないことですが仮に臨終のときにふっと
改心したと。
昔は人が死ぬとなったら必ず坊さんを呼んだそうです。
死なない間に、説教をするために呼ぶんです。
それが形式化したのが枕経です。今の枕経は遅いんです
よね。
本当はまだ息の有る間に、意識の有る間に、昔は在家に
も深い信仰をもった人があったんです。
そういう名の通った人を呼んできて今死ぬという人に説
法してもらったそうです。そして一緒に念仏を称えた。
今はそれが逆になって死んでからですが、死んでからで
は遅いです。
十念と一念。
お釈迦様と阿弥陀様が言ったことですからどっちでもい
いんです。仏様が間違いするはずが無いんですから。
十遍より一遍のほうが簡単だから一遍を取りましょうと
いうので、一遍を盗ったのが一遍上人。
一遍上人の名前はここからとったそうです。一遍のほう
が楽ですからね。
十遍というのだと九遍だったら往生出来ないのかもしれ
ないと思いますが、一遍だったらその一遍さえ外さなか
ったら必ず極楽往生出来ますからね。
その一遍上人も晩年になると、一遍も十遍も弥陀の本願
に非ず。南無阿弥陀仏が往生させてくれるんだと。
数に囚われるなと。
南無阿弥陀仏でいいんだと。
それは今いう臨終のお念仏だということです。
臨終にその分別、さあもう今から死んでいくんだ、さあ
念仏称えなければというようなちゃんとした分別は、呆
けたら出来ませんね。