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「極楽往生の切符」

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これはお釈迦様が説いてるんですね。
ここの臨命終時とは臨終のことですね。
だから一般には医者がもう息を引き取ったなと確認した
ら、親族の人に只今ご臨終ですといいますね。
だから一般には死んだ時を臨終だと思ってるわけです。
ところがそうじゃなくて仏教がいう臨終というのは。
若しくは一日・・・とこれから死んでいくという終りに
臨むとあるのだから、終りに近づいていく其の間が臨終
というのです。
その臨終の時のお念仏が一番大事なんです。

平素は勿論称えたらいいのですが、平素称えておって、
いざ病床に伏してしまったら平素はよく念仏称えておっ
たけれども、病気になって床に入ってしまったらぷつっ
と念仏が止まってしまった。
和尚さんのお父さんは、平素はよく念仏をなんまんだぶ、
なんまんだぶ、なにかことがあったらなんまんだぶと、
よく称えていたそうです。
寒いときに、和尚さんが子供の頃は火鉢がありましたが、
冬の寒いときにお父さんが夜帰ってきたら、火鉢にあた
ってなんまんだぶ、なんまんだぶと。風呂に入ったら風
呂の中でなんまんだぶと。風呂へ入ったら暖かくて気持
ちがいいんだなあと和尚さんは子供心にそう思ったそう
です。
そんなふうにお父さんは絶えずお念仏を称えていたそう
です。
ところがお父さんが病気になって寝込んだら、呆けてな
いのに念仏を称えなくなったそうです。
それで和尚さんは、お父さんに、極楽は信じられますか
と聞いた。
するとお父さんは、半信半疑やなあと。
半信半疑では念仏は止まりますよね。

これも以前にお話したかもしれませんが、和尚さんが和
歌山の寺でご祈祷をしてたら、阿弥陀様と善導大師と法
然上人が現れて、あ、ここのお家は浄土宗だなと思った
んですね。
然しながら今までも浄土宗の人は毎日のように来てると
思うけど、未だかつてこんなことはなかった。
そうするとここのお家には浄土宗の念仏の信仰を深く持
ってる人がいるに違いないと思って、ご祈祷が済んでか
らお宅は何宗ですかと訊ねたら、やはり浄土宗でした。
それでついでに聞いてみると、お宅に浄土宗の信仰を深
く持ってる人はいますかと。
来たのは奥さんでしたが、即座にそれは私の主人でござ
いますと。私等はとてもついて行けません。
絶えず念仏を称えているというのです。
奥さんは四十台だから主人もそう歳は変わらないと思う
のに、よくまあ念仏を絶えず称えた。
それだけの信仰を持ってる人だからおそらくは臨終の時
にも念仏は出たに違いない。

それからこれも何遍もお話ししたと思いますが、和尚さ
んのお爺さん。お爺さんが臨死体験をしたんです。
ふらふらと倒れて、今これから死んでいくんだな、臨終
だなと思ったので念仏を称えたんです。
念仏を称えて意識不明になってしまったんです。
其の後の話しは和尚さんが和歌山の寺へ逝ったときに後
日聞いたそうですが、お爺さんは倒れてから息を吹き返
したんですが、その倒れて仮死状態の中で念仏を称えて
いたんですね。

自分が極楽往生出来るなら阿弥陀様が迎えに来てくれる
とお経に書いてあるのだから。
そう期待しながら念仏を称えているが一向に阿弥陀様が
現れない。お迎え下さらん。
これは往生出来ないのだろうか。
一瞬頭に一心不乱という言葉が浮かんだので、これは一
心不乱が足らんのかなと思うてなおも一心不乱に念仏を
称えてましたら、そこへ黒い衣を着た僧侶が現れて、貴
方は必ず極楽往生出来ますと。
然しまだ寿命が残ってる。
貴方が寿命終わるときは阿弥陀様は必ずお迎えに来て下
さいます。
私はそのとき阿弥陀様のお伴をして参りますと、こう言
ったそうです。貴方はいったい何方ですかと聞いた。
私は遊行(時宗)の七代だと。
(琢磨上人という偉い上人があるそうです)
それでどれくらいかたって、意識が戻ったんですね。
こういう話を和尚さんに聞かせてくれたそうです。
極楽往生したら必ず、死後硬直が無いそうです。
だからお爺さんは極楽を本気で信じていたんですね。
信仰というのは極楽が有るに違いない有るに違いない阿
弥陀様が来てくれるに違いないというその違いないとい
うのがちょっと怪しいんですね。
今夜の月を眺めて、明日は天気は晴れに違いない、こん
なときにこういう言葉が出ますね。
今夜は天気は晴れてますが明日になったら雨が降るか降
らないか分かりませんね。
然しこのちょうしだったら明日も晴れに違いないだろう
と思うときに、私たちは、違いないと信じるんですよ。
明日は晴れに違いないと信じる。
ところが、信仰上の信じるというのは、そういう違いな
いというようなものじゃないんです。
極楽が有るに違いない。
私は有るに違いないと信じると。そうじゃなくて、今此
の机の上にお経が置いてある。
これはお経に違いないと言わなくてもお経です。
そんなに張り切って、これはお経に違いないと思わなく
てもこれはお経です。
皆さんが何処かへ買い物にでも出かけていて、これから
家へ帰ったら家は有るだろうか、有るに違いない。
火事になったりというのは問題外としてちょっと出かけ
た間に家は有るだろうかと、そんなことは思わないです
よね。有るに決まってる。
なんの疑いも無い。
だからあそこを通ってここを通ってと考えなくても、無
意識のうちに家へ帰ってますね。
極楽もそれと同じなんですよ、まだ行ったことはないけ
れども有るに違いないじゃなくて、有るに決まってある。
そこの違いなんですよ。
有るに違いないというのは、信仰じゃないんですよ。
有る無いの問題じゃない。
その極楽へ行くについての心の持ちようが、絶対に客観
的には有るのは間違いが無いんですこれは百パーセント
これは問題ないので、自分の信仰の心の持ちようがはた
して極楽へ往生させて頂けるだけの信仰であろうかどう
かという疑いはあってもいいのです。
極楽が有るのだろうか無いのだろうかというのは信仰じ
ゃない。
自分の信仰がはたして阿弥陀様のお心に叶っているだろ
うかどうだろうかという疑いは持ってもいいと思うので
す。
和尚さんのお爺さんは、自分は平素から念仏も称えてい
るし信仰もしてるから往生出来るだろうなと思っていた
と思うんですよ。
ところはそういう臨死体験をして必ず迎えに来ると言っ
てもらったんですから、もう証明を貰ったんですから極
楽往生の切符を貰ったようなものですよね。
だから其れを以って、もう確実になったに違いないと思
うんですね。
然し信仰というのは、有るに違いない。
救うてくれるに違いないというものじゃないんですね、
もう有るに決まってあるんです。
お経に説いてあるとおりの心境に自分はなってるんだろ
うかという疑いはまた信仰と別で、一心不乱に念仏を称
える。
そして臨終に念仏を称えられないと、お経にはそう説い
てあるのですから、極楽往生は出来ない。
念仏の功徳によっていい所へは行けるけれども、極楽往
生の条件は、臨終の念仏です。
 我々は何故、お念仏を称えて極楽を願うかというと、
お経にそう説いてあるからそれを実行してるんですね。
そのお経のなにを実行するのかといいましたら、弥陀の
作品名:「極楽往生の切符」 作家名:みわ