「極楽往生の切符」
いろいろなお話しをしているうちに、同じ話が
重なる場合もあると思うのですが、仏教のお話
しは何回も聞いたほうが理解が深まると思いま
すので聞いていただきたいと思うのです。
このお話しをお聞かせ下さっています和尚さ
んの宗派、時宗の二祖上人のお言葉に
「仏道に志す者は無常を心得るべし。無常を心
得る者は地獄を怖るべし。地獄を怖る々者は極
楽を願うべし。極楽を願う者は南無阿弥陀仏と
称すべし」
この無常ということは、常無しということで、
この常というのは一定の状態を保っていて変化
しないという意味を常というのです。
仏教ではこの下へもうひとつ「住」という字を
付けて「常住」留まるという意味ですね。
変化しない。
然しながらその常住というものは無い。
我々の周囲の何処を見ても、眼に見え得るもの
もあるし眼に見えないものもあるが年々刻々と
変化しているわけです。
結局、人間も同じ無常の法則の中に入ってい
るわけです。
現に生まれたときと今の姿は違いますね。
どんどん変わってきたわけです。
それを別の言葉で「生老病死」という言葉でも
表しますね。
生まれてからずうっと健康ではないですね。
病気をすることもあるでしょうし、そしてやが
て歳をとって死ぬ。
是は皆無常なんですね。
変化してやがて死んでいく。
結局、仏教の無常観というものは、死ぬぞとい
う警告なんです。人間は必ず死ぬんだ。
百パーセント死ぬんだということです。
人は死んでも自分は死なないと、なんとなくそ
う思っている。
兎に角、死ぬんだということを考えなさいとい
うことです。それが何時死ぬか分からない。
それで死んだら一体どうなるのか。
あの世へ逝ったらどうなるのか。
仏教は勿論、あの世というのを認めてるんです
が、認めないというのは大間違いです。
死んであの世というところは、善人も悪人も平
等と違うんです。
善人の逝くところと、悪人の逝くところは違う
んです。
具体的にいうならば、悪人は地獄。
地獄も上中下、上中下とあるわけです。
善い世界でも欲界、色界、無色界とあるように、
天上界でも二十八天の段階がある。
それは皆、この世の行いの如何によって違う。
そして信仰の深い浅いによって違うんです。
とりあえず地獄というものがあるんだということで、地
獄は兎に角除かなくてはいかんということです。
地獄というのは最低ですから。自分は地獄へ行くかも分
からんのだという気持ちを持たないといけない。
自分は地獄は行かないんだというような自惚れは持って
はいかんと。地獄を怖れないといかんと。
地獄へひょっとしたら逝くかも分からんと思うならば、
極楽を願いなさいと。
極楽を願う者は南無阿弥陀仏と称すべし。
と、こういうお言葉があるのです。
これは勿論、地獄、極楽を認めているわけですよね。
このお話しをお読みになってられる方々はこの話を当た
り前のように思っておられると思うのですが、今の坊さ
んのほとんどは、あの世も地獄、極楽を認めません。
今頃地獄、極楽の話しをするのかと笑うそうです。
あの世を信じる坊さんは全体の二割だそうです。
そういう時代なんですね。当に末法の時代ですね。
然しながら、昔のこの偉いお坊さんはこういうふうに言
ってるわけです。
死ぬということをまず考えて、地獄へ逝くかも分からん
ということも考えて地獄を怖れよと。
地獄へ逝くということを怖れるならば極楽を願いなさい
と。
極楽を願う者は南無阿弥陀仏と称えなさいと。
こういうひとつのご法語があって、そして阿弥陀経の中
に「是より西方十万憶の仏土を過ぎて世界有り。
名づけて極楽というその土に仏在しますは阿弥陀と申す。
今現に在しまして説法し給う」という一説がありますが、
これはお釈迦様がこの阿弥陀経をインドで説いてるんで
すね。
この現実の人間の世界で説いたわけですが、
「舎衛国祇樹給孤独園」とお経にありますが、これを省
略して祇園というわけです。
祇園精舎ですね、つまり仏教信者の、お釈迦様を支持な
さった方があって須達という方があって、その方は貧乏
な人があったら必ず自分の力に応じて助けていったんで
す。困ってる人を見れば特別助けたんですね。
孤独な人に供給したというわけです。
この祇樹というのは、祇園精舎は長者と、それからもう
一人ギダタイシという太子がが居って、その太子の庭園
を須達長者が買い取って、そしてお釈迦様のお寺を建て
たんです。
するとその太子もそれに感激して庭にたくさん生えてい
る樹を寄附したわけです。
それでギダ太子の祇と樹で祇樹と、孤独な人に供給する
人と、そのふたつの名前をとって、祇樹給孤独園といっ
た。それを祇園と省略して言ってるんですね。
大きな庭園に大きなお寺を建てた。
その庭園は太子が供給し、そこに須達長者がその買った
庭園をお釈迦様のためにお寺を建てた。
その祇園精舎で仏説阿弥陀経を説いたわけですが、大概
のお経をここで説いてるんです。
その今説いてる現在に、ここで今私が説教しているよう
に、阿弥陀様も西方極楽で現に説法し給うという一説な
んです。
其の時仏在します阿弥陀と申す、今現に在しまして、在
しましてというのは阿弥陀様でもお釈迦様でも一つの所
でじいっとしているわけではないんです。
あっちこっち教化に廻っているのです。
阿弥陀様はあの世だけどあの世で教化に廻ってるわけで
す。
極楽でじっとしているわけではない、あっちこっちの世
界へ空間ですけれども、あの世には極楽があるように無
数の浄土があるわけです。
或いは、極端にいうと地獄もある。
だからあの世の衆生を、あの世の方々は済度しているわ
けです。
阿弥陀様でもお釈迦様でもそれから観音様やお地蔵様も、
この世の我々も助けるようにあの世の衆生も救うている
わけです。
だから今ちょうど、私が阿弥陀経を説いているときに、
今現に西方でも阿弥陀如来は説法している、という一説
です。
その阿弥陀経の中に、「執持名号、若一日、若二日、若
三日、若四日、若五日、若六日若七日、一心不乱、其人
臨命終時、阿弥陀仏、与諸聖衆、現在其前、是人終時、
心不顛倒、即得往生、阿弥陀仏、極楽国土」こういう一
説があるわけです。
若しくは一日、若しくは七日とあって、一心不乱という
のは我々が日常に使う言葉ですが、これは仏教の言葉で
すね。お経のここから出てきてるんです。
阿弥陀如来の謂れを聞いて、その謂われというのが念仏
を称えたら必ず極楽往生出来るんだというこのことを聞
いて、今これから死んでいく人が念仏を執持する。
念仏ばっかりを称えるということですね。
それが若しくは一日、若しくは二日、若しくは七日。
一心不乱なれば、其の人命終の時に臨んで阿弥陀仏が諸
の聖衆と共に、つまり観音勢至二十五菩薩ですね、阿弥
陀様のご眷屬。もっと大勢いらっしゃるのですがそうい
う方々をお連れになって、其の人の前に現れる。
ということはお迎えに来て下さるということです。
その今から死んで行くという人が、心顛倒せずして、だ
から極楽往生する人は呆けないということです。
即ち、阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。
重なる場合もあると思うのですが、仏教のお話
しは何回も聞いたほうが理解が深まると思いま
すので聞いていただきたいと思うのです。
このお話しをお聞かせ下さっています和尚さ
んの宗派、時宗の二祖上人のお言葉に
「仏道に志す者は無常を心得るべし。無常を心
得る者は地獄を怖るべし。地獄を怖る々者は極
楽を願うべし。極楽を願う者は南無阿弥陀仏と
称すべし」
この無常ということは、常無しということで、
この常というのは一定の状態を保っていて変化
しないという意味を常というのです。
仏教ではこの下へもうひとつ「住」という字を
付けて「常住」留まるという意味ですね。
変化しない。
然しながらその常住というものは無い。
我々の周囲の何処を見ても、眼に見え得るもの
もあるし眼に見えないものもあるが年々刻々と
変化しているわけです。
結局、人間も同じ無常の法則の中に入ってい
るわけです。
現に生まれたときと今の姿は違いますね。
どんどん変わってきたわけです。
それを別の言葉で「生老病死」という言葉でも
表しますね。
生まれてからずうっと健康ではないですね。
病気をすることもあるでしょうし、そしてやが
て歳をとって死ぬ。
是は皆無常なんですね。
変化してやがて死んでいく。
結局、仏教の無常観というものは、死ぬぞとい
う警告なんです。人間は必ず死ぬんだ。
百パーセント死ぬんだということです。
人は死んでも自分は死なないと、なんとなくそ
う思っている。
兎に角、死ぬんだということを考えなさいとい
うことです。それが何時死ぬか分からない。
それで死んだら一体どうなるのか。
あの世へ逝ったらどうなるのか。
仏教は勿論、あの世というのを認めてるんです
が、認めないというのは大間違いです。
死んであの世というところは、善人も悪人も平
等と違うんです。
善人の逝くところと、悪人の逝くところは違う
んです。
具体的にいうならば、悪人は地獄。
地獄も上中下、上中下とあるわけです。
善い世界でも欲界、色界、無色界とあるように、
天上界でも二十八天の段階がある。
それは皆、この世の行いの如何によって違う。
そして信仰の深い浅いによって違うんです。
とりあえず地獄というものがあるんだということで、地
獄は兎に角除かなくてはいかんということです。
地獄というのは最低ですから。自分は地獄へ行くかも分
からんのだという気持ちを持たないといけない。
自分は地獄は行かないんだというような自惚れは持って
はいかんと。地獄を怖れないといかんと。
地獄へひょっとしたら逝くかも分からんと思うならば、
極楽を願いなさいと。
極楽を願う者は南無阿弥陀仏と称すべし。
と、こういうお言葉があるのです。
これは勿論、地獄、極楽を認めているわけですよね。
このお話しをお読みになってられる方々はこの話を当た
り前のように思っておられると思うのですが、今の坊さ
んのほとんどは、あの世も地獄、極楽を認めません。
今頃地獄、極楽の話しをするのかと笑うそうです。
あの世を信じる坊さんは全体の二割だそうです。
そういう時代なんですね。当に末法の時代ですね。
然しながら、昔のこの偉いお坊さんはこういうふうに言
ってるわけです。
死ぬということをまず考えて、地獄へ逝くかも分からん
ということも考えて地獄を怖れよと。
地獄へ逝くということを怖れるならば極楽を願いなさい
と。
極楽を願う者は南無阿弥陀仏と称えなさいと。
こういうひとつのご法語があって、そして阿弥陀経の中
に「是より西方十万憶の仏土を過ぎて世界有り。
名づけて極楽というその土に仏在しますは阿弥陀と申す。
今現に在しまして説法し給う」という一説がありますが、
これはお釈迦様がこの阿弥陀経をインドで説いてるんで
すね。
この現実の人間の世界で説いたわけですが、
「舎衛国祇樹給孤独園」とお経にありますが、これを省
略して祇園というわけです。
祇園精舎ですね、つまり仏教信者の、お釈迦様を支持な
さった方があって須達という方があって、その方は貧乏
な人があったら必ず自分の力に応じて助けていったんで
す。困ってる人を見れば特別助けたんですね。
孤独な人に供給したというわけです。
この祇樹というのは、祇園精舎は長者と、それからもう
一人ギダタイシという太子がが居って、その太子の庭園
を須達長者が買い取って、そしてお釈迦様のお寺を建て
たんです。
するとその太子もそれに感激して庭にたくさん生えてい
る樹を寄附したわけです。
それでギダ太子の祇と樹で祇樹と、孤独な人に供給する
人と、そのふたつの名前をとって、祇樹給孤独園といっ
た。それを祇園と省略して言ってるんですね。
大きな庭園に大きなお寺を建てた。
その庭園は太子が供給し、そこに須達長者がその買った
庭園をお釈迦様のためにお寺を建てた。
その祇園精舎で仏説阿弥陀経を説いたわけですが、大概
のお経をここで説いてるんです。
その今説いてる現在に、ここで今私が説教しているよう
に、阿弥陀様も西方極楽で現に説法し給うという一説な
んです。
其の時仏在します阿弥陀と申す、今現に在しまして、在
しましてというのは阿弥陀様でもお釈迦様でも一つの所
でじいっとしているわけではないんです。
あっちこっち教化に廻っているのです。
阿弥陀様はあの世だけどあの世で教化に廻ってるわけで
す。
極楽でじっとしているわけではない、あっちこっちの世
界へ空間ですけれども、あの世には極楽があるように無
数の浄土があるわけです。
或いは、極端にいうと地獄もある。
だからあの世の衆生を、あの世の方々は済度しているわ
けです。
阿弥陀様でもお釈迦様でもそれから観音様やお地蔵様も、
この世の我々も助けるようにあの世の衆生も救うている
わけです。
だから今ちょうど、私が阿弥陀経を説いているときに、
今現に西方でも阿弥陀如来は説法している、という一説
です。
その阿弥陀経の中に、「執持名号、若一日、若二日、若
三日、若四日、若五日、若六日若七日、一心不乱、其人
臨命終時、阿弥陀仏、与諸聖衆、現在其前、是人終時、
心不顛倒、即得往生、阿弥陀仏、極楽国土」こういう一
説があるわけです。
若しくは一日、若しくは七日とあって、一心不乱という
のは我々が日常に使う言葉ですが、これは仏教の言葉で
すね。お経のここから出てきてるんです。
阿弥陀如来の謂れを聞いて、その謂われというのが念仏
を称えたら必ず極楽往生出来るんだというこのことを聞
いて、今これから死んでいく人が念仏を執持する。
念仏ばっかりを称えるということですね。
それが若しくは一日、若しくは二日、若しくは七日。
一心不乱なれば、其の人命終の時に臨んで阿弥陀仏が諸
の聖衆と共に、つまり観音勢至二十五菩薩ですね、阿弥
陀様のご眷屬。もっと大勢いらっしゃるのですがそうい
う方々をお連れになって、其の人の前に現れる。
ということはお迎えに来て下さるということです。
その今から死んで行くという人が、心顛倒せずして、だ
から極楽往生する人は呆けないということです。
即ち、阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。