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生きる意味… 父親からの性的虐待の心の傷

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高校に入り考えも少しずつかわってきました。憎い両親のせいでわたしの人生をズタズタしてしまうのは悔しすぎると思うようになってきました。とりあえず高校は卒業しなくては後々損をするような気がしてきました。
卒業して就職して県外に行けばもう親と顔を合わせることも少なくなると自分に言い聞かせるようになり、家での反抗も止めました。
何もなかったと言い聞かせ笑顔で過ごすように努めました。そぉしないと自分が保てなかったんだと思います。
毎日、ニコニコとしているように笑顔の練習もしました。
そんなわたしをみて母親も何もなかったと勘違いしているようでした。
わたしが必死で毎日を演技してるのに…




高校を卒業して・・
わたしは実家から新幹線で2時間くらいの大阪に家をなかば飛び出すように就職先も決めずに上京しました。職安に行き仕事を探しました。高校卒業してすぐの4月になかなか仕事はありませんでした。世間はバブルの時代。美容室に就職が決まりました。
毎日忙しく朝から夜中まで働きました。
わたしにとって忙しいのはすごく助かりました。父親のことで悩む時間も減ってきました。48キロあった体重も3ヶ月くらいで40キロまでおちました。休みの月曜日も普段の疲れから一日寝ていることが多かったです。
少しずつ父親のことが過去のことになっていきました。
お正月、お盆には実家に帰りました。実家に帰り父親の顔をみると気持ち悪く思いましたが、相変わらずわたしは笑顔で自分をかくし演じ続けています。何故、自分の気持ちに素直になれなかったのでしょうか?わかりません。



20歳
わたしは結婚しました。小さいころから温かい家庭にあこがれが強くありました。高校のころから付き合っていた同級生です。会えば喧嘩ばかりしていましたが元々、仲の善い家庭で育って無かったのでわたしが我慢すればうまくいくと思ってました。
母親がしていたように我慢すれば。
母親とわたしの違いはわたしにはやりがいのある仕事がありわたしには友達がたくさんいてなにかあれば相談もできること。
その頃、父親から母親伝いで手紙をもらいました。内容はわたしに対する謝罪の手紙でした。わたしが可愛かったのでいきすぎた愛情表現をしてしっまた。と書いていました。
詳しくは行為の内容は書かれていなかったのでなんかはぐらかされているようで納得のいくものではありませんでした。
それでも許そうと思いました。恨み続けることはそのことをずぅと忘れないことになると思いました。
許せば忘れる事が出来るのかと…相変わらず演技で笑っていましたが、許そうと思い出した頃から父親のことがかわいそに思えてきました。
間違ったことをしてしまった父親もわたしと同じように悩み苦しんだのではないかと考えるようになりました。
母親も苦しみでも毎日忘れたふりをしてわたしのように演じていいるのではないかと思うようになってきました。
少し心が救われました。生きていくことが許されるような気がしました。




妊娠
結婚して2年後、妊娠しました。その頃はまだ大阪に住んでいたのですが、わたしが出産、育児で仕事が出来なくなると生活も出来なくなる現実。夫婦で相談して実家のある県に帰ることにしました。
主人に過去のことは言っていません。とてもではないですが、そんなことを受け止めれるような器は持ってません。自分のことが大切で、わたしのことは持ち物のようにしか思って無いことに気がつきました。ゆうこと聞いてくれる母親か、自分の思い通りに動くロボットか…くらいの扱いでした。
借金問題、女性問題と次々にわたしを飽きさせてはくれませんでした。

虐待は繰り返されるとよく耳にしました。わたしも子供に同じことをしてしまったらどうしようという不安がありました。
2年後に2人目を妊娠しました。その頃わたしの実家の隣に父親が私たし達の家を建ててくれました。素直に感謝して4人で引っ越ししました。
ふとしたときに気持ち悪く思うことはありましたが、『罪を憎んで人を憎まず』と自分に言い聞かせていました。






子ども達が少し手を離れる上の子が7歳、下の子が5歳のころわたしは恋をしました。メル友募集から知り合った家からは新幹線で3時間くらいのところに住んでいる10歳年下の男の子です。わたしはそのとき30歳。その男の子は19歳です。
毎日メールをしました。わたしがはじめて男の人にワガママになれた人でした。メールの返信が遅いときわたしが相手をなじるメールを2、3通続けて送っても返信は
『ごめん、返事が仕事で出来なかった』
わたしが『こっちこそ責めるメールごめん』と送ると『ゆかは悪くない返事が出来なかった僕が悪い』と
そんなことを言ってくれる人がまわりにいなかったのでたかがメールですがすごくハマってしまいました。ワガママにさせたのも自分が悪かったからだと言ってくれる人。
メールの交換をはじめて2ヵ月位した頃すごく会いたくなり新幹線に乗って会いに行きました。日帰りでしたが少しでも会いたく思いました。
実際会ってみて全然全く目の前の男の子に恋心は沸きませんでした。帰りの新幹線の中いつものようなメールがきました。わたしは本人でなくメールに恋をして依存していたことに気かつきました。
それからも毎日メールの交換をしました。半年ほどしたある日ぱったりとメールがこなくなりました。依存していたわたしはメールを毎日待ちました。過去のメールをみてどうにかして心を落ち着かせたかったけど、無理でした。
この頃からわたしはうつ病になりました。



うつ病
なにも手が着けられず毎日当たり前に作っていたご飯が作れない。本を読んでも始めの1行から進めない。テレビの内容も理解できない。毎日が無気力で朝おきて何から初めて良いのかも
わからなくなりました。普通の毎日の生活が霧の中にいるように見えなくなっていきました。
母親に『わたしうつ病かもしれないので病院に連れて行って欲しい』と頼みました。母親は『うつ病とは気持ちの持ちようでどうにでもなること。自分がうつ病だと思えばうつ病だし、そんなことで病院に行ってるのを近所に知られたら好奇の目で見られる。しっかりしなさい。ゆか!』と言う返事でした。
わたしもうつ病になることはいけないことだと何故か思っていましたので、病院は諦めました。
なのでうつ病だったかどうかは医師の診断もないのでわかりませんが自分ではうつ病だったと思っています。
晩御飯の買い物にいってメニューが思いつかず普通なら30分程で済ませれていた買い物が1時間お店の中を歩き回ってもまだ買い物かごには何一つ入ってないような始末です。
毎日何故だかわからないけど、失望感で涙がでました。このまま消えて無くなってしまえないかと思っていました。
でも、それが子どもの頃に受けたことが影響しているとかは思いませんでした。理由なんて無かったようにおもいます。

当然、主人の母親役をすることも出来なくなり、夜の相手も出来なくなりました。
31歳で離婚しました。
仕事もやめました。




32歳
この頃から少しずつうつ病は良くなってきました。生活の為仕事も復帰しました。美容室の一店舗を任せてもらいました。