アインシュタイン・ハイツ 102号室
暗闇の中で半身を起こして尋ねた叔父に、こっくりと頷いて見せると、叔父は小さくため息をついて「一緒にいってやるから、おねしょする前にさっさと起きな」と言った。
俺が起きあがると、同じようにごそごそと布団から這いだしてきた叔父は、「お母さんたちを起こさないように、静かにな」と唇の前に人差し指をたて、それから音も立てずにドアを開けて俺の腕を取り、真っ暗な廊下を明かりもつけずにひたひたと歩きだした。
外泊の用意など何もしていなかった叔父は、自前のランニングシャツに、寝間着代わりにと父が貸した葡萄茶色のトレパンをはいていた。眉目のしっかりした、割と整った顔立ちをしていたくせに、ひょろりと鉛筆のように痩せた印象の所為でことごとくフォーマルが似合わない叔父は、そういう格好が若い時分からどうしようもなく似合ってしまう人だった。
叔父に腕を取られて進むひんやりした廊下は、窓から差し込む街灯の光に薄青く染まって見えた。乱暴に積み重ねられたきりのダンボールの形。まだ所定の位置に収まっていない家具の陰。そんなものがまるで不気味な影絵のように、廊下の床の至る所を埋め尽くしていた。その陰の合間にちらちらと現れてはまた暗く沈む叔父のトレパンの葡萄茶色が、なんだか血の色のように見えて不気味で、廊下の電気のスイッチに手を伸ばした俺の指先を、叔父はそっと止めた。
「電気はだめだ」
「だめって、何で?」
尋ねた俺に、叔父は困ったみたいに微笑んだ。
「びっくりしちまうから」
「びっくりって、おじさんが?」
その頃の叔父は髪の毛を少し長く伸ばしていた。寝起きの格好のままボサボサと叔父の顔に落ちかかる髪が、窓明かりを受けて複雑な陰影を叔父の顔の上に落とし、その所為で俺は口元以外の叔父の表情がほとんど見えなかった。
俺が聞き返すと、叔父はやはり困ったように口元を歪めた。
それから「お母さんたちには内緒だぞ」と言って、廊下の冷たい板の上に膝を着き、俺の目をのぞき込んで本当に、ほんとうにちょびっとだけ微笑みながらこう言った。
「おじさんの側にはな。いきなり明るくなったら、びっくりしていなくなっちまう子が居るんだよ」
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終電に飛び乗り、たどり着いた駅から何度電話をかけても、叔父は出なかった。ようやく春めいてきてはいたが寒い夜で、ごうごうと強い北風に煽られながら暗闇の向こうからやってきたタクシーを捕まえて、俺はとにかく叔父の家に行ってみることにした。
行き先として差し出したレシートの裏に書かれた住所を、まだ若いタクシーの運転手は知らないらしかった。携帯のナビサイトで検索したので、最寄り駅に間違いはないはずだが、住所が間違っていたのかと思えばそうではなく、ただ単に運転手が道に不案内なだけだったらしい。無線の問いかけに答えた年齢を感じる渋い声が、駅からの大体の道を告げると、若い運転手は「ああ、アインシュタイン・ハイツのことか」と笑顔になってアクセルを踏んだ。
暗い窓の外に広がる見知らぬ町の景色を、タクシーはどんどん追い越していった。びゅんびゅんと後ろに流されていく、叔父からの年賀状に書かれた住所でしか見たことがない町は、まさに叔父のイメージだった。思えば俺は、町の名前だけじゃなく、叔父のこともそんなによくは知らないのだ。叔父は親切で、会えばいつも優しかったし、よく冗談なんかも言ったが、自分の内側に決して他人には踏み込ませない絶対の部分を持っていた。それは一本の明確なラインのように叔父と周囲とを隔て、その所為で叔父はいつも、どんなときも、誰と一緒にいても常に一人でいるように、何故かくっきりとして見えた。
「お客さん、悪いけど車、ここまでしか入れないんで。あと歩いて行ってくれます?ハイツまですぐですから」
そんな風に物思いにふけっていたら、不意にタクシーが止まって、運転手が申し訳なさそうにそんなことを言ったので、俺は顔を上げた。
タクシーが止まっていたのは、両側にどことなく昭和の面影を感じさせる板塀が続く、狭い路地の車止めの前だった。車が入れないのではどうしようもなく、俺は運転手に道を教えてもらい、料金を支払ってタクシーを降りる。
昼間ならおそらく明るい通りなのだろうが、深夜もとうに過ぎた今は、どの家々も恐ろしいほどシン、と静まり返り、路地にはいっそ神々しいほどの静寂が満ちていた。
まるで世界に自分がたったひとりになったようだ。そんな錯覚を覚えながら、俺は遠ざかるタクシーを見送って肩に掛けたボストンバッグをゆすり上げ、とぼとぼと歩きだした。
街灯を頼りに、手にしたメモで電柱に記されている住所を確認しながら、運転手に言われた通り角を曲がる。曲がった先は、さらに狭い小径になっていた。やはり時代を感じさせる板塀の上から、道に張り出した庭木の枝が鬱蒼と夜空を覆い隠し、見上げても月も星も見えなかった。街灯も小径に入ったとたんに途切れ、路地から差す僅かな光だけを頼りに歩かなければならず、だから夜空を遮っていた枝が不意に切れて、所々の窓に柔らかな灯りを点した大きな建物が見えた時、俺は心底ほっとした。
「アインシュタイン・ハイツ」と言うらしい。アパート風の三階建てで、いかにも古そうな外観をしたその建物が、叔父の今の住まいだった。門はなく、なんとなく他人の家に無断で入り込むような居心地の悪さを感じながら、俺がぼんやりとした照明に照らされている玄関をのぞき込んでいると、立ち尽くしている俺の足下を不意にするりと何か柔らかいものが撫でて行ったので、俺はもう冗談抜きで飛び上がるかと思う程驚いた。
悲鳴を押し殺して見下ろすと、俺の足首を撫でていったのは一匹の猫だった。滑らかな毛並みは灰色で、ツンと澄ました印象の逆三角形の顔が、肩越しにくるりと俺を振り向いて見上げる。
睨まれたような気がして俺が竦んでいる間に、猫はとっとと玄関の方に歩いていき、かりかりとドアを引っかきながら「にゃあ」と鳴いた。猫が何度かそれを繰り返していると、やがて暗かった玄関の内側にぱぱっと白色灯の光が点り、がらりと引き戸が開く。
「……やぁ、お帰りなさい。君、今日は少し遅かったですね」
引き戸を開けたのは、ひょろりと背の高い男の人だった。色白で黒い髪が少しだけ長く、フレームのない眼鏡をかけている。
細く開いた隙間から猫がするりと中に入り込み、ドアを閉めようとしてふと顔を上げたその人の視線が、立ち尽くしたきりの俺を見た。
一瞬面食らった俺が何か言おうと唇を開くよりも、彼が眼鏡の奥の黒い目を瞬かせて首を傾げる方が先だった。
「――……なにかご用ですか」
「え、あ、はい、その、ここに住んでる叔父を訪ねてきたんですけど」
「そうですか。何号室の方でしょう」
ごくごく静かな、低い声で彼は俺にそう聞いた。
夜の静寂にふさわしい、深い響きの声だった。問いかけに思わずどもりながら俺が叔父のメモを差し出すと、彼は文字をゆっくりと目で追い、それからやっぱり静かに笑った。
「ああ、八坂さん」
「ご存知ですか」
「はい。お隣さんです」
一つ頷いた彼は、ドアを大きく開けて俺を建物の中に入れてくれた。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 102号室 作家名:ミカナギ