アインシュタイン・ハイツ 102号室
中も外観を裏切らない古臭さだったが、想像していたよりもずっと綺麗で、居心地がよさそうだった。古いことは古いが、どこも嫌味でない程度に掃除されていて、手入れも行き届いている感じだ。
俺を中に入れてくれた人は、入り口から数えて二番目のドアを手のひらで示し、「まだ電気がついているから、きっと起きていると思います」と教えてくれた後で、猫を抱えて入り口に一番近いドア――……101号室へと静かに入って行った。
廊下に一人取り残された俺は、示されたドアの前に立ち、こんこん、と静かにそのドアをノックした。
先ほどの人が教えてくれたとおり、閉じたドアの下の隙間から光が漏れていたので、叔父の在室は確かなようだったが、ノックに対する室内からの反応はなかった。それで不安になりながら二度、三度とノックをすると、体を硬くして待っていた俺の耳に、ようやく奥の方からゆっくりと足音が近づいてくるのが聞こえ、ドアのすぐ向こうに叔父が立つのが分かった。
「誰?」
「えっと、俺。一希、です」
「カズキ?」
俺が告げると、きい、と軋んだ音をさせてドアが内側から開いた。
「え、あれ、ほんとにカズキか。お前、なにやってんだ、こんなとこで」
廊下に佇む俺を見ると、叔父は眠そうだった目を丸くした。
「うん、ごめん、駅から電話したんだけど」
くたびれたシャツと、よれよれのジーンズをはいた叔父は、明らかに戸惑っていた。怪訝そうな叔父の言葉に、肩からボストンバッグを下ろしながら俺が言うと、叔父はああ、と気が抜けたように頷いた。
「ああ、あれカズキからだったか。いや、鳴ってたのは分かってたんだけど、てっきり他の奴からかと思って……まぁとりあえず入れよ。しかしお前、なんだその大荷物は。まさか家出か?」
「わはははー、実はそうなんだ」
俺が床に下ろした荷物を見ながら叔父が言って、俺が笑いながら頷いた。叔父の目が、途端にもっと丸くなる。
「マジでか。おじさん、冗談のつもりで言ったんだが」
「ところが大マジなんだよ。だからさ、叔父さん、悪いけどしばらく泊めてくんない?隅っこでいいからさ。大人しくしてるし」
「隅っこでいいったって、お前……」
叔父はしばらく口元を片手で覆って考え込んだ。そりゃそうだ。真夜中のこんな時間に甥っ子が「泊めてください」なんて、叔父には予想もできない事態だったに違いない。
「品川の伯母さんは?お前が此処にきてるって知ってるのか?」
「知らないと思うよ。俺、誰にもなにも言わないで出てきたし。それに伯母さんは叔父さんの住所なんか知らないだろ」
「誰にもなにもって、そんなんじゃお前、今頃向こうの家が大騒ぎになってんじゃないか?」
「別に大騒ぎになんかなってないよ。伯母さん、それどころじゃなかったみたいだし、それに」
俺は笑顔で、叔父に親戚連中の今日までのひどい所行を言いつけてやろうとした。
仏壇に手を合わせるよりも先に、通帳を探した伯母のこと。形見分けだと言いながら、父の愛用の万年筆や、母が大事にしていた着物やらを次々に俺から取り上げて行く親戚たち。
俺と血の繋がっている人たちを悪く言いたくはないが、こんなのはもういっそ笑い話にするしかないような話だろう。実際俺はそうしてやるつもりだった。笑顔で叔父に言いつけて笑い飛ばし、「まぁでもこんな事はなんでもないから」と、そうせせら笑ってやるつもりだったのだ。
しかし俺は叔父の顔を見た途端に何も言えなくなり、そうして結局その場に立ち尽くしたまま俯くしかなかった。
本当に、何も言えなかったのだ。
体の奥から不意にこみ上げてきた熱い固まりに、急に胸と喉とを塞がれて。
「――……」
次の瞬間、何の意図もなく俺の目からこぼれた涙は、一度落下を許してしまったらもう止められなかった。
最近自分の身の回りで起こったすべてのことに、自分がここまでショックを受けていたのだ、ということに今更気がついて、俺自身びっくりしていた。堪えても堪えても押さえきれない嗚咽が次々喉の奥から溢れ出て、ついには俺は共同の廊下で人目も気にせず、大声を上げて本気で泣き出していた。
それは物心がついてからしたことのない、赤ん坊がするみたいな本気の大泣きだった。あちこちの部屋のドアがかちゃりと開いて、そしてまた静かに閉じていくのが分かったが、だからといって止められるものでもない。
そんな人目を気にする余裕がなかったのは、叔父の方でも同じだったのだろう。わぁわぁと声を上げて泣く俺を、叔父はしばらく呆気にとられたように見ていた。
呆気にとられた顔から困ったみたいな顔になった叔父は、しかし苦笑いの表情になると、ゆっくりと俺の方に腕を伸ばしてきた。しばらく迷ったように俺の上をさまよったその手のひらは、最後に俺の頭に落ち着いた。子供にするように俺の頭を撫で、同じ手で涙と鼻水とでぐしゃぐしゃになった俺の顔を拭ってから、叔父は遠いいつかと同じように、小さくため息をつく。
「まぁ、とりあえず入れ。今日のところは泊めてやっから、もう泣くな」
男だろうが。
言われて、しゃくりあげながら俺が顔を上げると、叔父はくしゃっと顔を歪めて、無理矢理な笑顔を作った。
そして、俺が床に置いたボストンバッグを手に取り、いつかそうしてくれたように俺の腕を取って俺を奥に招き入れた。
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堰が壊れたように涙はなかなか引っ込んではくれなかったが、叔父は二度目の「泣くな」は言わず、俺が夕飯を食べていないのを知ると、マジックで「八坂」と書かれた大きな金色の薬缶を抱えて共同の台所までお湯を沸かしに行き、俺に醤油味のカップラーメンを作ってくれた。
叔父の部屋の柔らかく埃っぽい空気の中でカップラーメンを啜っていたら、なんでだかまた泣けてきた俺を、叔父は苦笑いしながら見ていた。
カップラーメンを食い終わり、一つしかないベッドを譲られて、巣穴のようなそこに潜り込む。全てのものが雑然と心地よく散らかった叔父の部屋は、布団にまで煙草の匂いがしみ込んでいて臭かったが、それが却って俺の心を落ちつかせた。
最後に一つ、派手に鼻を啜りあげてから目を閉じると、眠りはすぐにやって来た。
真っ暗な闇に落ちるようなその眠りは、しかし今までになく穏やかで、俺は心底からああ、ここに来れて良かったな、と思っていた。
これで始められる、と思った。いきなり両親が死んで、がむしゃらな現実に押し潰されてもうどうしようもなくて逃げ出して来た俺は、けれど親が生きてた頃のような生活にはもう二度と戻れない、ということだけはしっかり分かってしまっていた。
分かっていたのに「次」を始められなかったのは、俺が本当の意味で身近な人間の死というものを受け入れられていなかったからだった。五月蠅いと思ったこともあったし、煙たく思ったことだってあったけど、何だかんだ言って父も母も俺にとっては良い親だった。居なくなってすごく哀しかったのに、色々な事に翻弄されて上手く哀しむ事が出来なくて、だから俺は多分、少なくとも他の親戚よりは上手く、静かに俺を悲しませてくれるに違いない叔父の所に行こう、と思ったのだった。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 102号室 作家名:ミカナギ