アインシュタイン・ハイツ 102号室
「それで念のために、この間カズちゃんが電話してくれたときに聞いてた連絡先の弁護士さん……ええと、鍛治野さんって仰ったかしら。その方にお電話さしあげたら、すっ飛んでいらしてね。ほら、あの方、こう言うのも失礼なんだけど、ヤクザの方みたいでしょう?そんな方がすごい勢いでお怒りになったものだから」
「あー……そっか。なるほどな。うん、よく分かった」
当然の事ながら、俺は両親が遺した家財道具を売る許可なんてどこにも誰にも出してない。大体からして、十八歳でまだ未成年の俺にそんな許可が出せるわけもない。
そういうことも含めて、悠子には俺と親戚が今、遺産相続の件でもめていることを話してあったので、悠子のおじさんやおばさんにもピンと来るものがあったのだろう。
おじさんがその人たちの足止めをしている間におばさんが鍛治野さんに連絡を取り、やってきた鍛治野さんがただでさえ怖い顔をさらに強面に歪めて、ものすごい勢いでその人たちのことを追い払ったので、その人たちはトラックに積んであった荷物を庭先や玄関先に放り出したまま逃げ出した。
逃げるならせめて家具類を所定の位置に戻してからにしてくれれば良いものを、と言ったところで逃げ出した人たちを呼び戻せるわけもなく、悠子のおじさんと鍛治野さんとが仕方なく放置された家具類をとりあえず家の中に運び入れた結果が、この有様であるらしい。
「この様相はあんまりだから、お片づけして差し上げようかとも思ったんだけど、鍛治野さんが『遺産相続の問題が片づくまで、この家の中のものは何も触っちゃだめだ』って……だから、このままにしておくしかなかったの。ごめんなさい」
「ああ、なんかそうらしいな……いや、悠子が謝ることじゃねえって」
悠子は別になにも悪くはないのだが、何か妙な責任を感じているらしく、そんなことを言って頭を下げたのを慌ててあげさせる。
そういや今、俺の親権問題とか、遺産相続の問題とか、詳しいことはどうなってるんだろうか。意識がぶっ飛んでたり風邪引いたりのおかげで、鍛治野さんとはまだろくな話ができてないなぁ、と俺がため息をつくと、瞬きをした悠子が真顔で俺を見上げた。
「ねぇ、カズちゃん」
「ん?」
見下ろすと、悠子は視線を乱雑に家具が折り重なった玄関へと向けて、小さく息をついた。
「わたしね。おじさまとおばさまがお亡くなりになったんだから、この家にあるものは全部、カズちゃんのものになるんだって思ってたんだけど、違うの?」
「いや、俺のもんだろ。ただ、俺がガキだからって理由でいろいろむしりとってこうとする人間がいるんだ、世の中には」
がりがりと頭をかく。
自分で言っておいてなんだが、それは悲しくなるほど事実だった。
近しい人物がある日突然いなくなってしまうこと。小さい頃はただ良い人にしか思えなかった親戚が、ある日を境に突然自分にとってどうしようもない人になってしまうこと。悲しいことだけれど、本当にどうしようもなく悲しいことだけれど、それは現実に、たとえば誰の上にでも起こりうることなのだ。
「なんつーか、親父と母さんが死んでから、知りたくなかったことばっかりよく分かるようになったよ。世の中がよく見えるようになった、なんて言うと悟り過ぎなんだろうけど、でも前よりはちゃんと見えるようになった気がする。それが良いことかどうかは、よくわかんねえんだけど」
そして血縁がどうのこうの言うよりも以前に人間が人間である以上、それはもうなんともしがたいことなのだろう。
まったく、ほんとうにろくでもない。俺が息をつくと、悠子は凛とした視線を前に向けたまま、静かな声で一言こう言った。
「良いことよ」
見下ろす。悠子はじっと前を見たままだった。
荒れ果てた俺の家の玄関を、今よりもっとずっと幼かった頃、毎日のように遊びに来ていた家の今を、じっと少し厳しい視線で目を逸らさずに見つめていた。
「それはきっと、良いことなのよ。だってどんなものだって、よく見えないよりはよく見えた方がいいに決まってるわ。見えなかったら、それが良いことか悪いことかどうかの区別だってつけられないものね」
静かな声できっぱりと言い切った悠子は、一つ深呼吸をするとぱっと俺を見上げ、まるで仕切直すかのようにニッコリと微笑んだ。
「さ、言わなきゃいけなかったことはこれでおしまいよ。もう戻りましょう。今日の締めはすき焼きなの。カズちゃんも覚えてるでしょ?うちのお母さんのすき焼きのおいしさは――……ま、今日はお客様がたくさんだから、お肉が牛肉じゃなくて豚肉なのだけれど」
「流石にあの人数の牛肉を用意したら、家計が破綻してしまうわ」と、ころころ微笑みながら悠子が言った。
安い輸入物の牛肉ならともかく、悠子の家は牛肉に――……特にすきやきに使用する肉にはある種のこだわりがあるらしく、絶対に国産の和牛肉しか使おうとしないのだ。ただでさえ高い和牛を今日の宴席に来ている客の分というのは、いくらこの宴会がご近所さんとのふれあい目的とは言え用意できるものじゃないだろう。
まあ、たとえ牛だろうと豚だろうと、悠子のおばさんが作る物はなんでもうまい。特にすきやきは絶品なので、悠子の言葉に頷いた俺もきびすを返し、次の瞬間。
「あ、そうだ、悠子!」
ふと思いついたことがあって悠子の背中に呼びかけると、悠子は肩越しに俺を振り返ってきょとりと首を傾げた。
「なぁに?」
「うん、あのさ。大したことじゃないんだけど」
「大したことじゃないって、やだわ、もしかして愛の告白でもするつもり?」
「いや、待てよ。普通それは大事だろう。そうじゃなくてだな」
悠子がにっこりと微笑んで、俺は肩を落とした。
常々思うのだが、一回で良いから悠子の頭の中を見てみたい。というか、七歳の時に初めて顔を合わせてからこっち、悠子とは人生の大半の時間を共有しているはずなのに、どうしてこいつがこんな性格になってしまったのか、正直見当もつかない。
「あのさ、小さい頃の事って覚えてるか?」
気を取り直して改めて聞くと、悠子はこっくりと首を傾げた。
「小さい頃?そりゃまあ、カズちゃんが引っ越してきてからのことぐらいなら」
「上等。んでさ、お前、俺の叔父さんには会ったことあるよな?」
「叔父さんって、おばさまの弟さんだったわよね?おじさまとおばさまのお葬式の時に、ちらっとお見かけした気はするけど、確かまだお若い方じゃなかったかしら――……で、結局なにが聞きたいの?」
「いや、その叔父さんってよりもさ。俺がすげえ小さかった頃の話なんだけど、俺、あんまりよく覚えてなくてさ。それで、もしかしたらお前が覚えてたりしないかなーって」
俺が悠子に聞きたかったのは、先日俺が風邪で寝込んでいたときに見た夢の女の人――……あの半透明な幽霊さんのことについてだった。
あの幽霊さんが、叔父さんや俺――……俺の家族、に関わりのある人なら、もしかしたら幼なじみである悠子にも何か覚えていることがあるかもしれない、と思ったのだ。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 102号室 作家名:ミカナギ