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アインシュタイン・ハイツ 102号室

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 それが現在世に出ている叔父の一番新しい仕事だ、というのは、叔父が帰ってきたその日に聞いた。宥めてもすかしても話したがらない叔父からなんとか聞き出した所によれば、叔父の現在の職業はなんと「作曲家」なのだと言う。
「俺、作曲家ってもっとこう、ほら、ベートーベンとか、モーツァルトとか?ああ言うもんだと思ってたから、まさかお隣さんがねぇ……」
「それならそれで叔父さんも素直に教えてくれれば良かったのになぁ。人に言って恥ずかしい職業でもないと思うんですけどね、作曲家って」
 むしろ自慢していい職業の筈なのだが。
 最近やっと俺に慣れてきたのか、丁寧語の堅さが抜けてきた志摩さんの言葉に、俺が不満な表情を作ると、志摩さんは困ったように笑った。
「まぁそれは人によるもんなんじゃない?八坂さん「作曲家なんて自分で言うのはイヤだ」って、本気で恥ずかしそうだったし」
 あの日、手書きの楽譜を俺たちに見られた叔父の落ち込みようと言ったらなかった。俺たちが「作曲家だなんて、絶対誰にも言わないから」と、なんとか宥めてやっと立ち直り、ぼそぼそと自分の仕事のことを話し始めたまでは良かったが、俺の「なんでニートだなんて言ったのさ」という疑問には、とっくに三十も過ぎた男が真顔で頬を染め、「堂々と『作曲家』なんて名乗るのは恥ずかしいだろう」なんてことを言うのだから、本気で自分の職業を人に知られるのが恥ずかしいと思っているのだろう。ていうか、普通は「職業・ニート」なんて言う方がよっぽど恥ずかしいと思う。
「ま、何にしろ分かってよかったね、叔父さんの仕事……ああ、ほらほら、これもそうだろ?この曲。さっきのとはぜんぜん雰囲気違うけど」
 現在、叔父は知り合いが代表を務める音楽事務所に在宅勤務のような形で所属し、その会社の依頼によって作曲活動を行っているものらしい。尤も、その事務所に所属しているアーティストは今のところ叔父一人だけだし、事務所の代表を勤める知り合いとやらも、実際はあまり人前に出たがらない叔父に代わり、仕方なく各種の交渉や契約なんかを引き受けるエージェントとして叔父の音楽活動を支えてくれているだけの人のようだ。今回の出張にしたって、とある映画で使用する楽曲の録音の仕事を「別に俺がいなくても出来る」とのたまって断った所、「今更お前の出不精を叱るつもりはないが、幾らなんでも作曲者本人がいないんじゃスタッフに示しがつかないから、これだけは来てくれなきゃ困る」とその人に叱られ、嫌々栃木の山奥にある石切り場跡を改造した少々特殊なコンサートホールまで行って来たと言うのだから、それならそれで最初から言って行けば良かっただけの話である。
 そんな有様だから、ある意味では叔父が堂々とニートを自称するのも間違ってはいないのかもしれない。そういや亡くなった母は、よく叔父に電話で「せっかくいい仕事をさせて貰っているのだから、少しは人前に出る努力をしなきゃだめよ」なんて小言を言っていたが、つまりはこのことを指して言っていたのか。
 再びテレビ画面から流れてきた別のCMの、今度はアップテンポなテクノ風の曲に耳を傾けて志摩さんが言うのに、俺は肩を落として頭をかいた。
「そうみたいですけどねー。つーか癒し系の前はテクノ系って、いくら何でも節操なさ過ぎて、正直同じ人間が作ってるようには聞こえないんですけど。ほんとに叔父さんが作ってんのかなぁ。なんか微妙に信じられないんですよね」
「あっははは、流石にそこを疑ったら八坂さんが可哀想じゃないか。っていうか、俺は結構好きだよ、八坂さんの作った曲。どんな曲でも、なんか優しいカンジするよね……あ、つーことはあれかな。アレも八坂さんの曲なのかなぁ」
「あれ?」
 そんなわけで、叔父の職業が明らかになったのはいいが、余りに予想外な職種すぎて信じきれない、というのが現在の俺の本音だ。
 これならまだニートの方が信憑性があった、なんて俺がため息をつくと、志摩さんが声を上げて笑いながらそんなことを言ったので、俺は首を傾げた。
「時々聞こえるんだよね。夜、窓開けてたりすると、八坂さんの部屋から、歌が――……そういや最近は聞かないから、カズキくんは知らないか。とにかく、俺は今までラジオかなんかだろうと思ってたんだ。でもネットで検索してもレンタルショップで探してもこれっていう歌手が見つからないし、ほら、八坂さんああいうお仕事だろ?それならきっと八坂さんの仕事関係の何かが、偶然聞こえて来ちゃってただけなのかもなぁって」
「う、歌、ですか?」
 納得した、と言うように頷いた志摩さんが続けた話の内容に、俺は内心ぎくりとした。
 思わず聞き返すと、志摩さんは「それがさぁ、結構良い歌なんだよ」なんて遠い目をしながら、思い出すように腕を組む。
「大抵は何語だかもよくわかんない歌なんだけどね。でも時々どっかで聞いたことのあるような曲の時もあるし、うん、結構色々だよなぁ。きれいで果てしない感じの、外国の聖歌みたいな……いや、それとはちょっと感じが違うか。でもとにかく、聞いてるとなんかすごく懐かしいみたいな、そんな感じの歌でさ。ちょっとこれ以上はうまく言えないんだけど」

 押し寄せては返す、潮騒のようなメロディ。
 淡い感傷を風のように近く遠く、甘く繰り返して歌うひそやかな声。

「ええと、あの、ちなみにそれ、歌ってるのって男ですか、女ですか」
「ん?たぶん女の人だと思うけどっていうか、声がね。女の人だから、いつも。ちょっと甘い感じの……あ、いらっしゃいませー」
 あの歌は、俺の幻聴ではないのか。
 恐る恐る俺が尋ねると、志摩さんは笑顔であっさりと言い切った。
 まさかこんな事で志摩さんが嘘なんか言う筈がないが、それでもあまりに信じられなかった。なので俺は重ねて志摩さんにその歌の詳しい事を尋ねようとしたのだが、丁度そのとき店内にお客さんが入って来てしまったのでそれ以上は聞けず、俺は志摩さんに挨拶をしてコンビニを出た。
 外に出れば四月だというのに、風が随分と冷たかった。けれどそれ以上に俺の頭の方が混乱していたので、俺は全然寒さを感じなかった。
 あの歌を志摩さんも聞いたことがある、ということは、あれはもしかしたら俺の幻聴ではないのかもしれない。幻聴ではないならあの歌は現実で、あの歌が現実なら、それを歌っていたあの半透明の誰かさんだって実在すると言う事にならないか。
 それが乱暴な三段論法だと分かっていたが、それでも不意に膨れ上がった疑問を抑える事は出来ず、なんとか自分が納得できる結論を出そうと数分間頭の中で理性と格闘した挙句、俺はついにある意味人類の究極の命題とも言うべき難題を、ものすごく真剣に考えざるを得なくなってしまった。
 あの部屋で俺が見た不思議な歌をうたう半透明な誰かさんは、果たして実在するのかどうか――……つまり、この世に幽霊は存在するのかどうか、と言うことである。