アインシュタイン・ハイツ 102号室
それから「とりあえず今日はもういいか」なんて言いながら、長いホースを引きずりつつ道路の端に寄せて置いてあったバケツを拾いにいこうとするので、俺は肩越しに振り返って長いホースの来し方を覗きながら、志摩さんの背中に声をかけた。
「あ、じゃあ俺、蛇口閉めてきましょうか。水、止めた方がいいですよね」
「そう?じゃあ悪いけどお願いできるかな。蛇口からホース外してくれれば、こっちで引っ張って纏めちまうから」
「はい、分かりました」
「よろしくね」と笑った志摩さんに頷き返して、ホースの元に向かう。コンビニのウィンドウを回り込んで裏手に向かうと、水道の蛇口はすぐに見つかった。
蛇口からホースを外して欲しい、と志摩さんは言っていたが、水が出っぱなしの状態でホースを外そうとすると、圧力の違いか何かで一瞬激しく水が吹き出して来ることがある。
なので、水を止めてからホースを外そうと水道の蛇口に手をかけたその瞬間、志摩さんが大きな声をあげるのが俺の耳に届いた。
「あ!八坂さん!!」
「志摩くん」
志摩さんが呼んだ名前に反射的に顔を上げ、建物の陰から少し顔を出して覗いてみると、駅の方角に続く道から叔父が歩いてくるのが見えた。
「あー、良かった、会えて。居るかなと思ってちょっと寄ってみたんだけど」
「俺も会えて良かったっスよ。カズキくんのことですよね?」
「うん、調子どんな感じかな。まだ寝込んでる?ていうか本当に悪かったね、色々と。迷惑かけちゃって申し訳ない」
「いえいえ、ぜんぜん!困ったときはお互いサマですよっていうか、今そこにカズキくん居るンすよ。熱はもうないみたいなんですけどね――……」
志摩さんの姿を見つけて早足に歩み寄ってきた叔父は、濃いグレーのシャツにコットンのパンツという、どう見ても大学生の私服にしか見えないような格好をしていた。出かけるときも似たような格好をしていった筈なので、おそらく出社するのにスーツを着なければならないような会社に勤めているわけではないのだろう。
そんでもって、スーツを着ない職業の代表例ってなんだろうか。いくらでも思いつけそうな疑問に首をひねりつつ、とりあえず叔父に声をかけようと口を開きながら、よく考えもせずに蛇口を思い切り捻ってしまったのが、そもそもまずかったのだと思う。
「叔父さ――……」
呼びかけた俺の声が途中で途切れてしまったのは、俺が蛇口をひねった瞬間、膨れ上がった水圧で一気に志摩さんの持っていたホースの口が彼の手を放れて躍り上がり、吹き出した大量の水がきらきらと太陽の光を反射しながらあたりにまき散らされるのを見てしまった所為だった。
奔流が向かった方向には計ったように叔父がいて、コントの水芸よろしく頭から水を被った叔父が驚きのあまり瞬きも出来ずに呆然とするのを見るに至り、俺は自分が水道の蛇口を誤って反対に捻って最大にしてしまったことを知って、本気で全身から血の気が引いた。
「っぎゃーーーー!?すっ、スンマセン!!スンマセン八坂さん、マジでごめんなさいーーーっ!!」
「ち、違う!!違うよごめん叔父さん!!俺が悪いんだ!!間違って蛇口反対にひねっちゃって……!」
志摩さんの大悲鳴に、あわてて蛇口を反対に閉め戻してから俺が駆け寄れば、あっと言う間に全身ずぶぬれになってしまった叔父は、ぱちくりと瞬きをしてから大きく息をついて笑った。
「うわー、びっくりした。なんだ、原因はカズキか?お前なにやったんだよ……ああ、いや、大丈夫大丈夫。ビックリしたけど、ただの水だろ?濡れただけだから」
「や、でも鞄の中身とか大丈夫ですか!?」
叔父は出張帰りに相応しく、右手にボストンバッグを一つと、左手に土産ものでも入っているのか、安っぽい作りの紙袋を一つ提げていた。
見る限り両方とも酷く濡れており、おろおろと心配する志摩さんに、叔父はやはり笑って首を横に振る。
「平気だよ。別に濡れて困るものは何も入ってない。でもとりあえずビニール袋を一枚くれたらありがたいかも……あ、そういやこっちに煙草突っ込んだままだったか。失敗したな」
「ビニール袋なんて何枚でも持ってきますし、煙草は弁償します!確かラッキーストライクですよね!?」
「弁償なんてする必要ねえって。志摩くんは悪くないよ。それに部屋にストックもある、し――……」
しかし悪いことは重なるもので、煙草が入っていたらしい紙袋の中身を確かめようとして叔父が腕を持ち上げた瞬間、どこか湿った音をさせて濡れていた紙袋の底が抜けた。
安っぽい作りの紙袋だと思っていたのだが、実際にちゃちな作りであったらしく、あっという間もなく裂けたそこから様々なモノがこぼれ落ちる。
土産物らしい包装紙に包まれた長方形の箱や、円形の平たい包み。濡れてひしゃげた煙草のパッケージやライターや形の潰れた帽子と言った叔父の私物に紛れて突っ込んであった雑誌サイズの封筒は、不幸にもきちんと封がされていたワケではなかったようだ。逆さまに落下したそこから溢れた白い紙が道路にざらりと散乱すれば、流石の叔父も喉の奥から唸るような声を出して両手で顔を覆う。
尤も、叔父は封筒が落ちたことに対してそんな仕草をしたワケではなかったらしい。
問題は落ちた物の内容で、叔父が「それは自分で拾うから!」と必死で制止するよりも前に、慌ててそれらを拾った俺と志摩さんが手にしたものの意外さに思わずきょとんとして顔を見合わせれば、叔父は情けないような困ったような、なんとも微妙な顔をしてがっくりと肩を落とした。
洗剤と落書きの塗料と水とで濡れたアスファルトを、瞬く間に覆い尽くした白い紙。
それは叔父の手書きであちこちに付箋紙が貼られ、赤いボールペンで俺にはよく分からない様々な注釈が付け加えられた、大量の五線譜の束――……つまりは、楽譜だったのだ。
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バレエのレッスン中らしい。すらりと背の高いレオタード姿の女の子が、凛としたまなざしをまっすぐ前に向け、壁のバーに捕まって某かのポーズをとっている。
窓の外は雨だ。どんよりと曇った空の下、山の緑の植物たちが雨の滴をキラキラとまとわりつかせて静かに光っているのを、ごくごく静かなピアノのBGMが引き立てる。
今流行のヒーリングミュージックとでも言うのだろうか。実際そういう楽曲ばかりを集めたオムニバスCDに収録されたこともあるらしいが、叔父はきょとんとしながら「癒しとか何だとか、そーゆー難しいことはあんまり考えたことがないな」とか言ってたので、たぶん本当にそういうことは考えていないのだろう。
最後に新発売された清涼飲料水の商品名がテレビ画面に映り、左下の隅の方に一瞬表示されたBGMの作曲者名――……「SHINJI YASAKA」を確認して、俺と志摩さんはほぼ同時にため息をついた。
「なんていうか……失礼な話だけど俺、生きてる作曲家なんか見たの初めてかも」
「俺もです」
コンビニにいつものスナック菓子と雑誌を買いに行ったらレジには志摩さんが居て、他に客の姿もなかったからそのまま立ち話をしていた所、偶然店内に設置されていたテレビ画面からそのCMが流れてきたので、二人でついつい画面に見入ってしまった後のことだ。
作品名:アインシュタイン・ハイツ 102号室 作家名:ミカナギ