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アインシュタイン・ハイツ 102号室

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 だけれどその時の俺はやはり良い感じに混乱していて、さっきまで見ていた夢やら今見ている現実やらの区別がさっぱりつかなくなっていたので、ついついそんな事も言えたのだと思う。
「こんなの、ただの風邪だよ。すぐに治る」
 だから、そんな顔しないでよ。
 熱に乾いて掠れた声で言うと、その人はびくっと一瞬だけ身を引いて、それから目を丸くして俺を見た。
 しばらく訝しむような目で俺を見ていたその人の視線は、しかしやがて柔らかくなり、優しい感じに目元が細くなる。
 彷徨っていた指先がゆっくりと俺に触れて、ぼんやりその人を見ていた俺の目を塞いだ。指先はそのまま俺の汗ばんだ額に張り付いた髪の毛をかきあげ、そっと降りてきたひやりと冷たい唇が瞼に触れれば、不意に燃えるようだった頭の芯が消えて楽になり、一挙に眠りが訪れる。
 そうやって津波のようにやって来た眠気に飲み込まれ、意識が途切れる直前。
 俺は、あの不思議な歌が部屋に微かに響くのを確かに聞いた。

■■■

 一晩眠って起きたら、熱はすっかり引いていた。目が覚めてまだあんな半透明な人が部屋に居たらどうしようかと思っていたのだが、当然のように部屋には誰もおらず、なんだか釈然としない気持ちだけが残った。
 ついで「朝になったから」と様子を見に来てくれたミドリさんに、真夜中にこの部屋に誰かが入った様子があるかどうか、を尋ねようかと思ったが、俺は結局何も聞かなかった。
 何しろ事が事である。仮にあれが実際の人間であるにしても、真実幽霊とかなんかそんな類のモノであるにしても、ハイツの管理人であるミドリさんには耳に痛い話になるだろうし、俺が熱の所為で幻覚を見たり幻聴を聞いたりしていた可能性だってないわけでもないと言うより、現段階ではそっちの可能性の方が高いからだ。
 ただ、俺が幻覚を見ているわけではなく、真実あの半透明な人が実在すると仮定するなら、叔父はあの人を見たことがあるのだろうか。あの人が部屋に出没するのを知ってて、それでも此処で暮らしているのだろうか。すでに記憶もおぼろな夢(だかどうかすら自信がないが)の様子を振り返って考えてみた限り、あの人は俺や叔父に何かしらの関わりを持つ人のようなのだが、見えるのはもしかして俺だけなのか。
 そんなことを悶々と考え込みながら、その日は用心のために一日布団の中で過ごし、志摩さんが差し入れてくれたレトルトのお粥や、ミドリさんが持ってきてくれたポリッジ(オートミールのお粥、らしい)なんかをありがたく頂いて大人しくしていた。
 そしてその次の日はもう叔父が帰ってくる日だったので、俺はとりあえず布団を這い出してシャワーを浴びてから着替え、叔父が帰ってくる前に部屋の掃除をすることにした。
 これ以上あの半透明な人のことを考えていても結論など出そうになかったし、なにより叔父が出かけていた一週間、ろくに掃除もしないで遊び呆けていたのみならず、最後の二日間は風邪なんか引いて寝込んでいたものだから、もう部屋の中が筆舌に尽くしがたい有様になっていたのだ。元々そこまで整理整頓が行き届いていた部屋ではなかったから、それも合わせた現在の混沌度と言ったらとても言葉では言えない。ていうか叔父さん、帰ってきた途端に卒倒すんじゃねえか、この有様見たら。
 そうやって考えごとを棚に上げ、部屋の掃除を居候の命題にして動いてみる限り体の違和感などは特に感じられず、風邪はどうやら寝込んでいた二日間ですっかり治ってしまったようだった。解決できてない悩み事はあるが、とりあえず健康だけは取り戻したことに機嫌を良くしながら窓を開けて、熱を出していた時にかいた汗でどことなく湿っぽくなってしまったベッドに晴れやかな日の光と風を通し、ゴミを掃きだしてシーツや溜まっていた洗濯物類をシャワールームの脇に置かれた共用の洗濯機に放り込む。
 ハイツの住人共用洗濯機は、どうやら空き缶に使用料を入れるシステムらしく、「心の洗濯料・百円」とボールペンの細い文字が踊る黄ばんだ紙が張り付けられた缶の中を覗いてみると、銀色の硬貨が何枚か底の方で光っていた。誰か見張りに立ってるワケじゃなし、いれなくてもバレないんじゃないかと思ったが、それは流石にここ数日すっかりお世話になってしまったミドリさんに対する良心が咎めたので、俺もポケットを探って取り出した百円玉をその中に投げ入れてから、洗濯機のスイッチを押す。
 洗濯機はしばらくごろごろと不安な音をさせて回転した後、「洗濯が終わるまで後三十五分」の表示を出した。それならその間に買い物でもしておこうか、と部屋に戻り、出かける支度を整えてからハイツを出て、意気揚々と商店街を目指して青空の下を歩いていると、途中にあるコンビニの前の道路でばったり志摩さんと会った。
「お、カズキくん、もう出歩いて大丈夫?」
「あはは、いやー、もうすっかり。志摩さんにはほんと、すごいお世話になりました」
「そっかー。回復早いのって若さだよなあ。いやいや、気にするなって。元気になったなら何よりですよ……でも風邪って治りかけが肝心だって言うから。ちゃんと暖かい格好して、無理せずおとなしくしといた方がいいよ?」
 俺が頭をかくと、今日も今日とてアルバイト中らしい志摩さんは、コンビニの店員にはあまりふさわしくない、使い古したような緑色のデッキブラシの柄に顎を乗せながら笑った。
「とりあえず夜更かしだけはやめときます……ていうか、何してんですか?」
「ん?ああ、これね。落書き落とし。店の前の道路に派手に落書きしてってくれたヤツがいましてねぇ。がんばってここまで落としたところなんだけど……どう?まだ目立つ?」
 言いながら道路に視線を下ろした志摩さんに倣って俺も足下を見れば、確かにコンビニの前の道路だけ土砂降りの雨が降ったように濡れていて、ところどころに洗剤の白い泡と入り交じった塗料の赤や黄色などが見えた。
 何が書かれていたのかはもう分からないが、その落書きを落とすために、手にしているブラシでずいぶんと気合いを入れて擦ったのだろう。「疲れたからちょっと休憩してるんだ」とため息をつく志摩さんと並んで立った俺の足下を、コンビニの裏側から長く延びてきているホースからちょろちょろと流れてくる水が洗っていた。
「八坂さん、今日帰ってくるんですよね」
「その筈ですけどね。駅に着いたら連絡するって話でしたけど、まだ何にも連絡ないんで、いつ帰ってくるんだか」
「そっか。早く帰ってこれるといいけどなあ。いや、しかしカズキくんの風邪がたいしたことなくて良かったよ。あれ以上ひどくなったらどうしようかと……いざって時の為に、タウンページで救急病院探しちゃったりしたもん、俺」
 叔父からは一度だけ連絡があった。といっても携帯のメールで、内容も「調子はどうだ?明日には帰るから、おとなしく寝てろよ」と言ったような短いものだ。駅に着いたらまた連絡するとも書いてあったので、俺がそれを言うと、志摩さんは肩をすくめながら腰を屈め、足下のホースを拾い上げる。