双子エピソード
共同生活2
不安なんだ、とレイスは言った。夜中、一人で起きてグラスを傾けていた弟に、久し振りにつきあったときに聞かされたのがその言葉。
なにが不安なのかとぼくは尋ねた。するとレイスは、ただ黙ってもう一口、杯をあおった。
レイスは、酔わない。酔えないのだという。どれほど飲んでも、酔いが回らない。うらやましがる人もいるけれど、実際は、酔いで気分を紛らわせられるほど、レイスの心が軽くないからだ。
最近、夜中に目を覚ますとレイスの家の明かりがかすかに灯っているのを目にすることが増えた。以前からそういうことはしばしばあった。でもそれが最近、とみに増えている。
いつから増えるようになったのか、それもはっきりしている。レイスと僕の家の間に、一件、小さな家ができた。それからだ。
不安の理由も、実は聞かなくてもわかっている。ヴァシル・ガルグという名の人物が、ここに暮らすようになった。彼はレイスにとって、憎むべき人だった。けれど同時に、レイスが弟のように慕っているサーレスくんの、家族とも言える人物だった。
サーレスくんは、レイスにヴァシルさんの面倒を見てほしいと言っていたけれど、本当はレイスは嫌だったのだろう。
ヴァシルさんはレイスの人生を大きく狂わせた張本人だとも言える。でも彼もまた、今はそのことを悔いている。そしてそんな彼に、幼いヴァイス君もなついてしまった。
レイスは、だからきっと断ることができなかった。
「僕から、サーレス君に言おうか?」
ぽつりとつぶやくと、杯をあおるレイスの手が止まった。しかし返事は帰ってこない。
注がれたウィスキーを手のひらで暖めるように、グラスを握りしめ、じっとその琥珀色の中に視線を落としている。
「ほんとは、しんどいんでしょ。無理してるのは、良くないよ。レイにとってだって、ヴァイス君にとってだって」
言葉を重ねれば、ますますレイスはうなだれて、グラスの中の揺らめきだけを見つめ続ける。
僕からレイスの顔は見えない。でも、液体の表面に映ったレイスの顔は、たいして揺らぎもないのに、ひどく、ゆがんで見えた。
「サーレス君だって、さすがにそんなになってるレイのこと知ったら、ヴァシルさんに言ってくれると思うし」
けれど重ねて言えばレイスは緩く首を振る。
「僕は、そんなにしてまで我慢してるレイを見る方がつらいよ」
レイスと別れている間の7年間、レイスがどれほどの目にあってきたのかは、実際のところわからない。それでも今のレイスを見ていれば少しはわかる。最近はすごく明るくなったと思っていた。けれど、ヴァシルさんがやってきてからと言うもの、レイスの表情は暗い。
ヴァシルさんと少しでも近づこうとすれば、逃げようとする。それも、おびえるように。
さっきも、レイスは言った。不安なのだと。きっとレイスはヴァシルさんをおそれているのだろう。自分を散々弄んできた相手だ。僕だってもし、最初の主人がこの場に現れたなら、それこそ今のレイスのようにおびえてしまうことだろう。
だから、僕自身、ヴァシルさんを好きになることはできない。
でも、僕だったらいくら相手が改心していたとして、僕の大切な人にとっては大事な人だったとして、それでも一緒に暮らすなんてことは絶対に無理だった。だから、どうしてレイスがヴァシルさんとともに暮らすことをいったんは受け入れたのか、そして別れることを拒絶するのか、それが正直わからない。
「それとも、ヴァシルさんに直接言う? サーレス君を介して言うことに、レイが悪いって思うなら、僕が、ヴァシルさんに、どこかに行ってもらうように、お願いするよ」
レイスがヴァシルさんになにも言わないのは、なにも言えないのは、サーレス君が絡んでいるからだと、僕は思っていた。だったら、僕が悪者になってもいいと思っていた。サーレス君は嫌いじゃない。僕のお菓子をいつもおいしいと言って喜んで食べてくれる。でも、僕にとってはそれだけの存在だ。だからきっと、僕なら角が立たない。
でも、そう言うとレイスははっとしたように顔を上げて、僕の腕をつかんだ。
あんまりに焦っていたのか、強く握られて少し痛みが走る。顔をゆがめると、レイスはまた申し訳なさそうに顔を伏せて、一言、こう言った。
「自分で、言う、から」
また、レイスは自分一人で抱え込んでいるのだと思い知った。自分一人で悩んで、自分一人で解決しようとして。
ヴァルディースさんと出会う前のレイスのようだった。昔、二人で旅をしていた頃、何かあるとそんな風にレイスは自分一人で決めて、動いていた。
それをやめてほしいとも、やめた方がいいとも言った。でも、それは僕にはどうすることもできなかった。
だからきっと、今決断したのだろうレイスを、僕がこれ以上どうにかすることはできないのだろうと言うことだけは、今の僕にはわかっていた。
なにもできない。なにもさせてはくれない。その歯がゆさだけが、僕に残った。
アルス、今のサーレスと出会ったのは、実験が終了し、オレの中にヴァルディースが完全に封じられた後のことだ。
だからあいつも、本当のところはよく知ってはいないのだと思う。オレが、一体ヴァシル・ガルグにどういう扱いを受けたのか。
けれど、ガルグで実験体として生きていたときのことは、正直半分くらいしか覚えていない。
覚えているのは、檻の向こうでオレたちを物としてしか扱っていなかった科学者たちと、あいつの顔。
ヴァシル自身はオレのことなんてこれっぽちも覚えてやしなかった。でも、よく覚えている。実験室で、なにをするにも最終的な決断を下していたのはあの野郎だった。
オレの体はそのころ、ひどく不安定だった。人間の体に精霊を無理矢理閉じこめると言うんだから当たり前だ。よくもまあ自分が、無事ここまで生き延びていられたものだとも思う。
ヴァルディースは火の精霊だ。それもこの世で一番の古株だという。そのころオレは10になったばかりの子供でしかなかった。何度も融合実験と、その成果を見るための実証が繰り返された。そのたびにオレの体はヴァルディースの火で焼けただれ、そしてオレの手によって多くの人間が生きながら焼かれていった。時には激しい暴走もあった。それを無理矢理制御したのも、時々ヴァシルが行っていたような気がする。
でも一度、オレはヴァルディースの制御に成功したかのように見えたことがあったらしい。
あいつは早速成果を見たがった。ガルグは余興と実験を混同させる。オレの成果を見るための実験台には、オレの母親が選ばれた。
そのときのことは思い出したくもない。
オレは村が敵の略奪にあって、そのときに一緒にさらわれた。母さんは、ずっと、オレとユイスの行方を案じていたらしい。だから、なにも知らず、村のはずれの森の入り口で、オレが母さんの前に現れたとき、ひどく喜んで、泣きながら笑ってくれていたことだけは、はっきりと目に焼き付いている。
オレの頭をなで、抱きしめて、無事を体全体で喜んでくれた。ユイスは無事なのかとも聞かれた。
でもオレは答えようとしても答えられなかった。オレの意思はそのとき完全にヴァシルに支配されていた。
母さんが荒れた手のひらでオレの頬をなでるのにも、何の表情を浮かべることもできなかった。