読者の君
またあるときは、海風そよぐ午後、慶香を腰に乗せてベランダから遥か沖合いを行くタンカーを眺めた。あのタンカーを追いかけよう、と言い、慶香の手を引いて入り江まで駆け下り、長い間使っていなかったクルーザーで外洋を走った。またあるときは、いや、もうきりがない……
しかし、ああ、美とは、男女の仲とは、かくなるものであったのか! 慶香の奇跡のような美しさにもやがて飽きがくるなんて! いまさらながら思ったね、美は一瞬こちらを垣間見て、走り去るべきものだと。犬や猫のようにまとわりついてきちゃあいけないと。十七年待った楽園生活も半年で色褪せた。酒はこぼれ、薔薇は散った。彼女の未熟で偏狭で非社会的で没論理の精神が、あらわになってきた。巨細に描かんものと新品のワープロを抱えて勇んで彼女の心の中に押し入った私は、ありきたりの置き物しかない狭い部屋を通り抜けたかと思うと、あっという間に裏口からまろび出ていた。ワープロに一字も打ち込まないうちに。
期待していた君、悪かったね。
しまいには彼女がうるさくなった。やがて慶香は妊娠し、どうしても産みたいとせっついてきた。私は、物心ついた頃から、コンドームをつけたことがない。あれをしておこなうのはおこなったことになるのか? 私は慶香に必ずピルを飲むようにと命じておいた。郁子にその管理をさせた。郁子がピルを慶香に渡し、目の前で飲むのを確認させた。飲んだ記録をつけさせて私がチェックした。どうも二人は共謀で私の精子を着床させたらしい。私にひとつだけ存在する正義とは、私の悪い血を地上に残さないことだ。私は激怒した。郁子は伊東に買い出しにいった際、堤防から転落して死ぬことになった。屍体は黒潮に流されながら魚のえさとなった。
領地の中を流れる小川、曽祖父の名に準じて半十郎川と名づけられた川の土手の桜並木、その海から二十二本目の老木の根方に慶香の屍体が埋まっている。昔から決まっているんだよ、桜の木の下には屍体が埋まっているとね。来年の春には、二十二番は例になく濃い花びらをつけることだろう。
ところで緊急の問題がある。今日孝雄がアメリカから帰ってくるのだ。もう夏休みだ。トントン・トントンとドアを叩くのが子供のころからの癖だ。因みに慶香はトントン・トンだった。
と言っているうちに前者の音がした。ドアが開いて私によく似た若い男が入ってきた。夏用の麻の背広を着て、ご苦労にもネクタイまでしている。ジーパンにUCLAのロゴの入ったTシャツ姿かと思っていたのに。なにか真面目な話をする時には服装もそれらしくせねばと思っているとしたらまだ子供だね。
この場の孝雄にどんなキャラクターを振り当てようか。私の青春の仮象としようか。私に青春なんぞなかったので好き勝手に造作できるだろう。一途な正義漢はどうだろう。少年時代の潔癖症の延長として無理はないと思う。私を攻撃させ、私のマゾヒズムを亢進させよう。私は若者からつるし上げにあうのが大好きだ。
随分大人っぽくなったな、などと言う私の時間稼ぎの言葉を無視して、孝雄は喋りまくった。
伯父さん、ここに来る前にじっくり調べさせてもらいましたよ。慶香が釣り船から落ちて行方不明になった詳細が警察から発表されていませんね。船が漂っていたのが発見されただけです。単なる憶測でけりをつけたんですよね。ごく普通の捜査がなされていない。警察と何か取引があったんでしょうか。伯父さんは警察とは長い付き合いですからね。
ただ、もう、あなた弁護士なんてやってないでしょうが。東京に行くふりをして、箱根小湧園のユネッサンでだらだら時間つぶしをしている。酔ってふやけてここに帰って来る毎日だ。とうの昔に弁護士登録は抹消されてますよ。新幹線被害者代表と称して土地買い上げ代金をネコババして追放されてますよね。
この土地の税金をここ二十五年間払ってませんね。裁判所と市から土地の接収の通牒が来てるじゃないですか。
そもそもこの土地を手に入れた曽祖父はなにものですか。アメリカの中西部で原油発掘に使った削掘機をスクラップとしてただ同然で輸入し、税関をごまかし、伊豆の温泉発掘に使ったんでしたよね。どこを掘っても温泉が出る土地なのに、専門家づらして、湯泉のありかはアメリカで温泉学を学んできた自分以外に的中できるものはいないと吹聴して、土地のものたちを騙しました。出てきたお湯は石油のにおいがしました。中古の機械にこびりついた原油の匂いです。さらに、石油が埋まっているかも、などとごまかして、人のいい土地の人に卑しい期待を抱かせましたね。
稼いだお金で爵位を買いました。子爵でとおっているけれど、金で買った男爵じゃないですか。
妹と自分とでお互いを受取人にして四億もの生命保険に入っていましたね。つい先日降りたその四億円はどうしたんですか。
慶香から私のところに妊娠した、相手は言えないというメイルが来ました。伯父さん、あなたは妹に何をしたんですか。
なーんにもしてないね。
正直に答えてください。ふざけないでください。
おいおい、ふざけないでこの浮き世をうっちゃることができるとでも思っているのか? 坊や、いったい何を教わってきたの、カリフォルニアで?
私はわずらわしくなって孝雄を殺すことにした。実際、なにもかもわずらわしくなってきたよ。ちょいと調子に乗って書きすぎた。
慶香の私へのラブレターがEメイルの形で幾通も残っている。私のたぶらかしの輝かしい成果だ。私たちは、同じ屋敷内で、中学生のようにメイル交換をしていたのだ。その文面の私の名のところを孝雄様に書き換えればよい。孝雄と慶香の携帯に移しておこう。孝雄と慶香の近親相姦の結果の妊娠、妹の死を悲しむあまりの後追い自殺、あるいは、妹を事故死に見せかけて殺したものの、懊悩の末に自殺、という確固たるストーリーがすぐさま出来たじゃないか。
私が、不愉快だからお前を殺すことにしたと言うと、ほう、どうやって、と言ったので、たとえばこうだ、と言って殺してみせた。
私の目の前には、耳から耳へ蛮刀で掻き切られた血まみれの孝雄の死体が転がっている。しかし、これでは死体の処理に困る。で、私はもとの場面に戻ることにした。忘れんでほしい、私はこの物語の作者なんだからね、ここいらは自由自在にやらせてもらうよ。私が幻想であることを、おっと間違った、私の幻想を、君に語っているんだからね。
孝雄は不服そうに言う。
あなたはどうやって僕を殺したんですか。
首を切ったよ。
彼はののしった。勝手な真似をして、伯父さん、あなたの罪をあばいて訴えてやりますからね、だと。生き返らせてやった恩も感じずに。そう思うと再び殺意が湧いて、今度は二十二番目の桜の木の枝で首をつってもらった。睡眠薬入りのブランデーを飲ませて眠らせ、私が引っ担いで行ってつるしたのだ。
老木は枝で孝雄を、根で慶香をとらまえて、わが家系の終焉の現場証人となった。あの老木の立ち姿は、なにやら私を彷彿とさせないか?
私はパイプに火をつける。ひと仕事もふた仕事もなん仕事も終わった気がする。