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読者の君

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トラックがすれ違えるほどの幅がある大理石の門を過ぎると、左右に薔薇の生垣が延々と続く。生垣を透かして、手入れのいい加減な花壇や畑が見える。明度と彩度を異にする幾種類もの緑の葉叢から野生化しかけた季節の花花が頭を突き出して揺れている。やがて屋根の傾斜が急な、巨大な西洋館が現れる。車回しを回って玄関に着くと黒檀の大扉がひかえている。吹き抜けの玄関ホールの右側には幅三メートルの階段が二階へ続いている。下五段分は弧を描いてさらに幅広くなり、椅子に坐った女のドレスのように床を覆っている。正面には、両開きのドアがあり、真珠の間が控えている。ここは百二十畳ほどの洋間のレセプションルームだ。伊豆では伝説的な鏝の名人が天女や鳳や象や虎や曼荼羅の浮き彫りを狂気に煽られるがままに天井と壁に刻んだ。正面には横山大観の朝焼け富士、左右の壁には、セザンヌ、ドガ、ピカソのエッチング、棟方志功の版画等が掲げてある。棟方は谷崎の「鍵」の挿絵を描いた。少年の私は父親の本棚からその本をこっそり抜き取っては挿絵を見ながらオナニーしたものだった。いずれもほんものだ。中央には二列に、アールデコ風の大テーブルが並び、坐ると頭が背もたれに隠れる肘掛け椅子で囲まれている。それらを大シャンデリアが見下ろしている。ここに客が来なくなってもう何年になるだろうか? 正装をした政財界の名士とその婦人たち、テーブルの間を足早に縫って行く白服の給仕、密談のひそひそ声、ゴルフ談議の笑い声、嬌声、スピーチ、楽隊の奏でるラ・クンパルシータ、落ちたグラスの割れる音、酒と蒸し肉と百合の花の匂い、開け放った窓から海風に乗ってカモメが闖入。男たちは大声で笑い、女たちは大げさに怯えた。亡霊たちの宴の思い出がこの部屋には漂っている。今は絵も家具も白布で覆われている。その下に果たして実物があるのかどうか疑わしい。真珠の間の奥には、下男下女の部屋があり、厨があり、裏玄関がある。二階には北側に廊下がまっすぐに走り、南側に部屋が七つ並んでいる。その内の五部屋は使われていない。本館とは別に、先々代の趣味で建てられた茶室がある。
敷地内には小川が流れ、海に注いでいる。小川に沿って桜並木がある。東伊豆の海と島を見ながら川沿いにだらだら坂を降りて行くと船小屋があり、中には十トンと八トンの漁船が格納されている。さらに海に浮かべてクルーザーがもやっている。管理は土地の漁民に任せてある。デブで左足が悪い郁子はたとえ四つんばいでもここまで下りてこられない。孝雄と慶香が小さい頃はこの入り江が冬をのぞいて彼らの主な遊び場だった。したがって二人とも水泳はきわめて得意で、中学生の頃、孝雄はオリンピック候補選手になりかけた。時々白砂を蒔いて客を呼んで夜通し騒いだ海岸も、今は寂れて、もとの火山灰そのままの地をあらわにしている。色黒芸者のぬたくったおしろいをはがしたようで興ざめる光景だ。父母や祖父母が生きていた時は園遊会がおこなわれ、湯治中の宮様もおいでになった。今は、桜の木も枯れかけ、花も余りつかなくなった。つつじ畑も菜の花畑も、ひまわりが密集していた丘もリンドウが這っていたテニスコート脇の斜面も往時の面影はない。見渡せば荒れ果て尽くした廃園である。我が家系の終焉を証拠立てている。なんだか私はこの土地全体が海に向かって少しずつずり落ちていくような不安感を抑えることができない。特に地震の直後なぞ、支えていた地下の爪が外れて一挙に地すべりを起こしそうな妄想にとらわれるのだ。
私が今いるところは、本館の二階、父が昔使っていた二十畳ほどの洋間である。私は靴を履いたままだ。靴を脱ぐべき部屋はこの屋敷内には、茶室しかない。今、季節は春、いや、それはあとで都合が悪くなる。夏である。
君は、このような物言いが今まで何度か出てきたので、もう見当がついているかもしれない。私が、物語の語り手なので、設定は私の任意なのだ。私がその場そのときの私の好みで状況を作り出していくのである。何のために私はそんなことをしているのかはおいおいわかってくるだろう。少しの我慢だ。今の段階で、ちょっとだけ白状すると、私は、自慢話をしたいのだ。君の人の良さと忍耐心につけ込んで、思わせぶりに君に期待を抱かせて、どうだ、といいたいんだ。付き合っていられんと早速こいつを投げ捨てようとしているね。ちょっと待て。君の付き合いに見合うかどうかはわからんけれど、私だってそれなりのお楽しみは用意してあるさ。さあ、どうする? ほらまた読み始めた。君が活字好きだということはわかっていたよ。さて慶香の真実を物語るのが当面の目的だった。私の気まぐれとおしゃべり癖は、しょっちゅうこの当面の目的というものを見失わせる。私の人生も同様にして目的を見失い続けた暗夜行路だった。迷子になってうろつくことが私の人生に対して抱くイメージである。いい歳して。もう五十を過ぎているのですぞ、全くお恥ずかしい。しかし、読者の君にただ恥ずかしいことを言っても仕方ない。君には自慢をしている最中だ。迷子のイメージも私の持っている子供らしいナイーブさをアピールしてついでに君が私に持ち始めた警戒心を和らげようという魂胆なのだ。慶香はどうしたかって? 私のもったいぶりは慶香の神秘性を少しは増加させただろうか。話はじらすようにして進むのが最も効果的だったよね。
雇い人といえば、もう一人、作男兼執事の源蔵がいた。近頃殺した、いや、死んだ。これは通いの老人で、子供のころはこの屋敷に忍び込んで栗やサツマイモをかっぱらっていた不良少年だったらしい。伊東の郊外に住む小作人の三男坊だった。先代にひっ捕えられて、ひどいお仕置きを受けたがその後すぐに、ここの手伝いをするようになった。終戦直後のことだ。屋敷内のサツマイモやサトイモと相模湾の魚介類を腹いっぱいに食べ、二メートル近い巨漢に成長した。成人した源蔵は、手のひらと足の裏を除くと全身真っ黒けで、白目が黄ばんで血走っており、くちびるが分厚く、どう見ても黒人だ。かつてここらに渡来した黒船の釜焚き水夫をしていたにちがいないニグロの曽祖父が漁師の娘といたした結果だろう。根が山がつなので、タキシードを着せていくら気取らせてみてもせいぜいがデキシーランドジャズのバンドマン風で、卑しい地を隠しきれず、とても人さまに会わせられない。造園、植林、大工仕事、畑作り、船の牡蠣がら落とし等に使ってもう五十年を超えた。いい歳をして盗癖が止まない。ボケのせいで盗みが平然たる、いや堂々たるものになってきたので、近々暇を出すつもりでいた。
この源蔵が慶香をいたくかわいがった。源蔵の抑制のなさは慶香を盗みかねない勢いだった。私のいくどかの抑制のきいた注意を解せず、下劣千万にも私の眼を盗んでかわいがった。近頃は、何が悪い、といった愚劣な居直りぶりなので少しの間も油断ならなかった。下劣と愚劣とは、寛容な私が長いこと許容しようと努めてきて、ついにそうできなかった、私に欠如している属性だ! 
作品名:読者の君 作家名:安西光彦