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読者の君

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風が強い。皮膚がべたつく。野菜がとれない。波の音で眠れない夜がある。海の存在が怖くなる時がある。地震で津波が襲ってくるのではないかという現実的な恐怖だけではない。海が観念となって重っ苦しく脳にまといつく。私の脳みそを観念の波が洗い、侵食するのだ。
いいこととはこういうことだ。まず今書いた海の観念化がプラスに働くことがある。閉塞していたくないという願望をその観念がかなえてくれる。沖から吹き込んでくる海風を総身に受けるときの、精神の解放感がたまらない。いかにも意識が開かれていく感じがする。さらに海風そのものが、物理化学的に、気象学的に、生理的に、心地よい。展望の開放性もまた精神に絶大なプラス効果をもたらす。なにせ水平線が見えるのだからね。君は精神の水平線なり地平線なりをいつも心の中に持っているかい? いいものだよ。
島々の配置の妙も味わい深い。ちなみに、今日は、俯瞰して、獅子座になるように散らばせておいた。星、じゃない、島、の数は、星座と同じく九個だ。夜になると、空と海に面対称の二頭のライオンを観察できる。集魚灯をともした漁船が海面を群れなす流れ星のように沖に向かって斜めに走る。モーターボートが水澄ましのように岸に向かってジグザグに帰ってくる。想いかえせば、数え切れんほど何度もボートに乗ったな。
たとえばヴェネティアで。元伯爵の屋敷がホテルになっていた。宵闇迫る頃、大運河に沿ってそこまでボートで行くのだ。ゴンドラじゃあない。モーターボートで臭い濁り水を切ってぶっとばす。水中から玄関へと階段が延びている。水に没している段の一段上のところに、白いタキシードを着た支配人が待っていて、ようこそいらっしゃいました殿下、と言って、運河に墜落するほど深々と、日本式のお辞儀をしたもんだ。なーに、羽振りのよさそうなやつはみんな殿下と呼んでいたな。後で分かったことだが、やつが元伯爵だった。
あるいはカンボジアで。シャム湾からメコン河を遡り、カンボジア、ラオスを通ってメナム河に入りバンコクに至る水路ばかりのグランドツアーを試みたことがあった。何艘目かに雇ったボートの船頭が私の言うことを聞かずに支流に入り込んで勝手に進む。岸辺にはニヤニヤ笑いながら仲間が寄ってくる。鎌や刀を持っている。中には佐々木小次郎のように、巨大パパイヤの皮を鞘にして山刀を担いでいる者もいる。船頭がナイフを抜いた。ピストルで撃ち殺してやった。ピストルは、サイゴンのショロンで、テニスラケットとならんで売られていた。日本円で七千円だった。死体を泥の川に蹴落とすと、アジアンピラニアが水音けたたましく殺到して水面が盛り上がった。ボートのへさきを反転して逃げた。その頃にはみようみまねで運転ができるようになっていた。仲間が岸辺を走って追ってきた。ライフルで撃ってくる。弾丸が水切りの石のように水面をスキップしながら舷側を掠めて走った。
さてと、食い物がまたいい。海の幸を年中食い放題だ。私のように、漁師のまねをして漁業組合にもぐりこんで仕掛けをこしらえて魚でも蟹でも海老でもとっ捕まえて食ってみなさい。海に潜ってあわびやサザエを獲ってごらん。海彦の味わっていた爽快さだ。
こういう環境の中で、美しい海女のように慶香は育った。ところが兄の孝雄は偏屈で、いつも猜疑心強く、私と慶香の交歓の機会を邪魔した。自分は慶香のおつきの舎人か近衛兵と思っていたんだろうね。歳がいくごとに彼の私に対する反感なり反抗心がいや増し、私は孝雄が邪魔臭くなってきた。東京の大学ではなくUCLAに追いやった。孝雄と慶香の母親はとうの昔に再婚してロスに住んでいた。孝雄はその家庭の近くに下宿することになった。上手くいった。やっと私と慶香の、夢のような、酒と薔薇の日々が始まった。おやおや、先走ってしまった。まだまだだよ、君。
ところで、私が独り者だからといって家事を切り盛りしていたとは思わんだろうな。私はれっきとした弁護士である。東京と伊東とを毎日往復し、ほぼ毎日裁判に出る多忙の身だ。家族思い、つまりは慶香思いだが、忙しい身だもの、家事などやったことはない。
慶香が生まれる前から使ってきた召使がうちにいる。名は郁子という。歳は私と同じだ。太った、風采の上がらないばばあだ。大昔は、色黒で吹き出物だらけの、防波堤の臭いのする、漁民の娘だった。当時、私と数回だが性交渉があった。その縁で私は雇ってしまったんだが、家に入れてからの女房気取りに辟易している。もう男女の関係は持っていない。これ以上図に乗らせないためだ。
このはしためが私と慶香の邪魔をした。孝雄が、僕の代わりに妹を守れ、と命じてバトンを渡したに違いなかった。このはしためは、切り札として、若い頃の私との火遊びの一件を持っていた。いざとなれば、伯父様とは実はこういう男で、何年たってもかわっていませんから、あなたを、ああ、神よ助けたまえ、手籠めにした挙句、腰の曲がったわたくしめのあとつぎにしよう、ってなことになっちまいますよ、と言いかねなかった。いや、もうこっそり耳打ちしていそうな雰囲気であった。私がふり向くと、つっと慶香のそばから離れることがよくあった。そこで私は、余計なことを慶香に言うと殺すぞ、と脅した。郁子は、私が本当にやりかねないことを直ちに察して、畏れ入った。私は、これからは邪心を捨てて犬になって仕えよ、と申し渡した。郁子は、料理と掃除をするだけの、人間の姿をした犬になった。
二人と一匹で暮らすのには、この屋敷は広すぎた。孝雄がいた四人の時も、妹がいた五人の時も、その亭主が生きていた頃の六人の時も、そのまた昔、われわれの両親と叔父叔母たちがいて執事や女中がうじゃうじゃいた時でさえも広すぎた。敷地は五万坪ある。別に隣接して戦前から経営してきたゴルフ場がある。
作品名:読者の君 作家名:安西光彦